五の十

 季恵は玄関の鍵をあけ土間にたたずんだ。

 もうそろそろ払暁の時分にさしかかろうというころで、町はほのかな明るみをおび始めているようだが、家のなかはまだ真っ暗で、そんななかでひとりたたずむ季恵の姿は不気味な、まるで魂の抜けた人形みたいだし、幽鬼のようでもあった。

 もうすっかり旅支度はととのえて、道中着を尻端折しりばしょりにして、手っ甲に脚絆といういでたちだった。身近な必要最低限のものをまとめてひとくくりにして、振分行李ふりわけごうりにつめこんでかついでもいた。

 雨戸の内鍵はすでにはずし、襲撃者を導きいれる準備は済んでいた。

 それでもなお、ふんぎりがつかないような、誰かが後ろ髪をひっぱるような、どうしても脚を一歩前に動かせない心持ちだった。

 さらにしばらく、季恵はうつむき、たたずんだ。

「まったく、やりつけないことはやるもんじゃないね」

 惑いを振り払うように、ちいさくつぶやいて、草鞋わらじを履いたまま上がりがまちをあがった。

 信十郎とお結が寝ている座敷のふすまをそっとあけ、信十郎の枕元にかがみこんだ。あまり得手ではないという酒を無理に飲ませて寝かせてあった。酒はもう抜けているだろうか。寝息に酒臭さはなかった。

「兄さん。おきておくれよ、兄さん」

 信十郎は目を覚ましたのか、ふと息の調子が変わって、頭を左右にすこしゆするのだった。

「あたしね、どうしても金が入り用だったんだ」信十郎がまだ半分夢の中にいるのに語りかけた。「こんな、腐った奴らのいる町をでて、京で小料理屋を開くんだ。だって、江戸に置いてきた両親や弟妹たちに、姉ちゃんは元気だよ、まっとうに生きてるよ、ってところを見せてやりたいじゃないか。そうだろ、わかってくれるだろう」

 信十郎が、うう、と相槌を打つようにうなった。その時だった。雨戸がかたかたと音をたてた。一枚ではなく、数カ所から同時に、同様のしのびやかな音がして、そっと雨戸がはずされ、玄関の戸が静かに引き開けられるようすが、空気を伝わってわかった。

 家の中に外気が流れ込んできて、空気がすっと変わった感じがした。

 信十郎は、まだまどろみのなかにいる自分を無理に目覚めさせるように、おおきく目を見ひらいた。

「いいわけはあとで聞こう」信十郎は、頭から逆さまにのぞきこんでいる季恵にちょっと驚いたが、つづけて云った。「お結をたのめるな」

「あいよ」

 季恵は歯切れよく返事して、さっと、眠っているお結をだきあげた。

 信十郎は起きあがり、手早くお結が寝ていた布団をまるめて自分の夜具のなかにつっこんで、刀をつかむと、寝衣の帯に差し入れて、部屋のすみに背をつけた。

 音もなく障子があき、ふたりの男がするりとすべりこんできた。あきらかに、こういう仕事に手馴れている動きだった。

 季恵は侵入者たちと入れ違いに庭に駆けでたようだったが、誰からもそれをとがめられる様子はない。

 入ってきたふたりのほかに、何人かの気配が、部屋を取り囲んでいるようだった。

 ――こんなことではないかと思っていた。

 信十郎は息をひそめて、昨晩の季恵を思い返していた。むりに酒をすすめたり、お結の熱がぶり返してはいけないからゆっくりすればいいとか、なにか必要以上の気づかいをみせる態度を、ちょっといぶかしんで観察していたのだった。

 男たちはすでに抜き身の長脇差ながどすを手に持ってい、信十郎が寝ていた布団を両側からはさみこんで立つと、息をあわせて、振りおろした。そして同時に、あっと小さく叫んで、ふたりは目を見合わせた。ところを、静かににじりよった信十郎が、峰打ちでひとりの、ぼんのくぼを叩くと、気を失ってくずれおちた。もうひとりが、あっともう一度叫んだ瞬間、首すじに刀の峰が入っていた。男はばたりと倒れ込む。

 そのようすを、部屋の外からうかがっていた数人が、いっせいに飛びこんでくる。

 正面から斬りかかってきたひとりの、振りおろした長脇差をはじき、首すじにひと打ちいれた。

 その男が倒れるまえに身体をひねると、右にいた男の腹部に刀をたたき込む。

 そこへ、先に倒れた男を飛びこえつつ、空中から襲いかかる男にも、腹部に一振りいれる。男は空中で一回転して、襖を破り倒してころがった。

 信十郎はすべて、峰打ちで倒していた。

 外から射し込む薄い光で見たところ、この襲撃者たちはかたぎの者ではないようだったが、新選組の刺客のような強敵でもなければ、なるだけ命は奪わずにすませたかった。

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