五の九

 季恵が去り、辰次郎が準備のためにさがると、轟弥兵衛はひとり、膳を前に酒をちびちびやっていた。

 そこへ、すっと襖がひらき、仙念の藤次が何も言わずに入ってきて、辰次郎のつかっていた膳のまえにあぐらをかいた。そして、自分で杯に酒を注いで、勝手にやりはじめるのだった。

「おい、新しいのをたのめ」

 たまらず轟がたしなめるのに、

「いえ、もったいないじゃないですか」

 云いながら、音をたてていかにもうまそうに口内に酒を流し込む。さらに徳利をかたむけて、中身がないのに気づき、手を叩いて女中を呼んだ。

 新しい徳利を三つと肴を運んできた女中がさがると、藤次は酒をすすって、鰆の干物をつつきはじめた。なぜ、琵琶湖の魚ではなく、敦賀あたりから取り寄せたものなのだろうと思いながらひと口ふた口食べ、ぞんぶんに舌で味わい、酒を呑む。そうしてやっと話しはじめた。

「旦那」と藤次は轟を気安い感じで呼んだ。「今度の討伐任務の裏の、隊の意図をご存じで」

「ああ、気づいてるよ。まあ、隊というより土方あたりの企みだろうがな」

「お逃げなさる」

「さあ、どうしようかな」

「でも、川井とは戦うんでしょう」

「ああ、秘剣はやかぜとか云うのを、破りたいしな」

「剣士としての矜持とかなんかですか」

「そんなたいそうなもんじゃねえよ。ただ、あれだけ隊内で噂になってたんだ。興味本位で見てみたいってところだな」

「見た瞬間、終わりなんてことになるんじゃ」

 轟は大笑した。口を大きくひらき、のどぼとけをゆらし、誰にはばかることもなく、低音の、腹に響くような音声おんじょうで笑うのだった。

「負けるとは、思えねえんだけどなあ」

 そして、顎に手をあてて、自分の無精髭を、なにか心地よさそうになでるのだった。

「それで、渡世人どもを手なずけて何をなさるんで」

「それは、見てのお楽しみよ。お前、どうせ藤堂から俺を見張るように命じられたんだろう」

「はあ、好きにやらせとけ、らしいです」

 轟はまた笑った。

「まあ、俺が川井に討たれれば、あいつにとっちゃ好都合だろうしな」

「負けないんでしょう」

「負けねえよ」

 轟は杯をあおった。

「そんなに飲んで大丈夫で」

「策戦の刻限までは、まだあるし」とまたあおって、おくびをひとつもらして、「それより、藤次、お前、俺が川井を倒したあと、見逃してくれるんだろうな」

「さあ、どうしましょう」

「どうしましょうじゃねえよ。ここでぶった斬ってやろうか」

「勘弁してくださいよ」とりあわずに、藤次は苦笑して云うのだった。

「新選組か。もう少し楽しめると思ってたんだがな。まあ、潮時ってやつだな」

 さほど残念でもなさそうに云って、轟は、また酒をあおる。

「女房も待ってるしな。そろそろ江戸に帰らねえと。お久の奴、間男なんぞを作ってなきゃいいけどなあ」

「え、結婚してたんで」

「なんだよ、その意外そうな顔は。お袋と一緒に待ってんだよ、俺の帰りを」

「お袋さまも」

「そりゃあ、いるだろ、俺だって人間だよ。木のまたから生まれてきたわけじゃねえや」

 まったく不思議な、おとぎ話でも聞いたというような顔で藤次は轟を見つめていた。

 それから轟は、むっつりと口をとじて、もう喋ることはなかった。ただなにかに思いをはせるように、算額の難題を解くようなむずかしい顔をして、じっと行灯の、細かく揺らめく光を見つめ続けるのだった。


 季恵は、もうずいぶん黒ずんでしまった道を家にむかいながら、思った。

 ――胸が重い。

 ふところの二十八・・・両の重さだけではなかった。

「人を裏切るってのは、こんなに重苦しいものかね」

 かつての、十三年前の自分に、問いかけるようにつぶやくのだった。

「売られちまったあん時、あたしはなにを思っただろうね。たった十三年まえのことなのに、すっかり記憶にないんだよ。だからかね、反対に人を売って、平気な顔をして、自分は自分の望むものを手に入れようとしてる」

 酒がまわって、脚はふらふらと、右にいったり左にいったり、すれちがう行商人が、あぶねえよねえさん、と不愉快そうに文句をいいながら、町へ向かって速足で通りすぎる。

 たしかに金は欲しかった。これまでも、稼ぐ方法はいくらでもあった。だが、彼女はもう身体で商売はしなかった。身体を売れば簡単に金が手に入ることはわかっていた。それでも売らなかった。売ってしまえば自分をすくいあげてくれた男の気持ちを踏みにじるような気がした。

 しかし今、死んだ男の心を思いやって、生きている男の心を踏みにじろうとしている。

「いいじゃないか。十三年、あたしは苦しんできたんだ。ちょっとは良い目をみたっていいじゃないか。たった三両で売られて、借金がつぎつぎにかさんで、ぬけるにぬけだせない苦しみの中で、ずっとあえいで生きてきたんだ。いいだろ、べつに、いいだろ」

 季恵は十七歳のころの自分を心に思い浮かべようとした。だが、いつも鏡でみていたはずなのに、自分の顔がどんなだったか、目の色も、髪の形も、肌の張りや形の整っていた乳房の大きさまで、まったくぼんやりと霞がかかったようになって、輪郭さえも思い出せないのだった。

「いいだろ、べつに、いいだろ……」

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