五の八

 日暮れて赤く染まった道を、仕立物屋に縫物を納品して、家へと帰る途中だった。家並みの影は真っ黒だし、赤い道との境界がくっきりと明暗をわけていた。

 季恵は、後ろから呼びとめられた。

ねえさん、姐さん」

 若い男の声にふりむくと、そこには、

「たしか、辰次郎親分とこの……」

「へえ、てるです。親分が姐さんをさがしております。お時間がございましたら、ぜひ、ご足労のほどをお願いします」

 博徒の下っ端のくせに、妙に丁寧に誘ってくる。

「まあ、いいけどさ。いったいなんの用だい」

「それは、親分から直接お聞きになっておくんなさい」

「ふうん」

 町の有力者からの誘いだし、断ると面倒なことにもなりかねないので、季恵は気乗りはしなかったのだけれど、応じることにした。

 連れられて行くと、そこは料理屋の座敷で、辰次郎はすでに膳を前に一杯やっているし、そのとなりには、無精髭をはやしたいかつい侍がひとり。

「なんです、突然」

「まあ、こっちにきて、酌でもしねえか」

 辰次郎はもう六十をずいぶん越していて、頭は薄くなった白髪を無理矢理結っているし、皺の寄った顔に大きな目を爛々と輝かせ、大きな口でだみ声で、まるで蛙が人間に変化したような年寄りだった。だが活力は枯渇していないようで、身体は精力がみなぎったような、十歳くらいは若くみえるほど、きびきびとしていた。

「いやですよ。なんであたしが」

 季恵は、自分の膳が用意されてはいたが、敷居際に立ったままで答えた。

「お前、あの家を売りたいって話だったな」

「あら、親分に話しましたっけ」

「んにゃ、ちょっと小耳にはさんだだけだがな」

「家がどうかしましたか」

「俺が買ってもいい」

 とたんに季恵は喜色を満面にして、

「おほほ、それならそうと早く云ってくだされば」

 などと辰次郎の横に座って、徳利を手に持って、しなをつくって艶めかしい手つきで杯に注いでやるのだった。

「それで、いかほどいただけるんでしょ」

「まあ、十五両ってとこだな」

「なんだい」季恵は徳利を叩きつけるように膳にもどし、「しみったれてるね」

「話はまだ終わってねえよ。おまけをつけてくれれば、あと五両だそう」

「おまけ」季恵は思案顔で、「いやですよ、親分の妾になんかなりませんから」

「ばかいえ。おめえみてえな、大年増の牛蒡ごぼう女、たのまれたって囲ってやるもんか」

「あらそう」

「おまけってのはな、今、お前んところに、若い男が転がり込んでいるだろう」

 季恵は、はいいますよ、とは云わないが、怪訝な顔でじっと辰次郎をみつめてしまった。とにかく心の中に浮かんだことをそとにださないとおけない性質の女なので、口は閉じても、顔が真実を語ってしまうのだった。

「その顔は、いるってこっていいな」辰次郎は、黙ったままの季恵に云った。「こちらの轟の旦那が、その男の命をご所望だ」

 季恵がちらと目をやると、侍は、話に興味があるのかないのか、肴を箸でつついている。

「ふふふ、バカにするんじゃないよ。あの兄さんが追っ手持ちってのは、うすうす勘づいていたけどね、金をつまれて、それじゃあどうぞご自由にと、簡単に売りに出すほど落ちぶれちゃいないよ。窮鳥懐にいればなんとやらさ」

「もう、五両だそう。全部で二十五両」

「二十五両」

「ああ」

「ふん、あと五両だね」

「調子に乗るんじゃねえ。顔なじみのお前だから、商売にしてやってんじゃねえか。こっちとしては、こんなまわりくどい交渉ごとは抜きにして、いきなり踏み込んでいってもいいんだぜ」

 季恵は、黙り込んだ。黙考しはじめたようであった。畳のかどの一点をみつめ、じっと視線が固まって、必死に頭を回転させていた。良心と打算が交互に頭に浮かび、信十郎やお結の顔と金色の小判が、めまぐるしいほどに頭の中でいったりきたりするのだった。

「とりあえず、あたしもひとついただきましょうか」

 辰次郎の持った杯を、ひったくるようにしてもぎ取ると、酒をいっぱいに注いで、ひと息に飲み干すのだった。

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