一の十

 信十郎は、ゆっくりと立ちあがった。

 しまった、と後悔の念が心中をよぎった。まさか、この宿に新選組の討ち手が――、小畑が泊っているなど、まったく思慮の内にはなかった。

 解放された清彦が、ううっ、とうめきながら、必死に逃げようと這っていく。

 小畑は、着流しの帯に刀を差しこむ。彼は、新心しんしん流の居合を使う。若いに似合わず、その太刀筋は凄まじく、すでに数人の尊攘派浪士を一刀のもとに葬っている。

「おゆい」

 信十郎は、刀に手をかけながら、後ろにむかって声をかけた。

「すぐに、支度をしなさい。必要なものだけを持って、俺をみつけたという浜へ行くんだ」

 後ろをふりかえる余裕はなかったが、納屋のなかから、おゆいが動いているような音は耳にとどかなかった。

「はやくっ」

 信十郎の叱声に、

「はい」

 とおゆいが反射的に答え、同時にいそいそと部屋のなかを動き回る音が聞こえてきた。

「おゆいをどうするつもりだ」清彦が、すがりつくように、信十郎の袴にしがみついてきた。「おゆいは、わたしのものだ。わたしのものだ」

「だまれっ」信十郎は、怒りをこめて叫んだ。「おゆいは誰のものでもない。まして、お前のような破廉恥な人間のもとには、あの娘を置いていくわけにはいかない」

「いやだ、いやだ」

「だまれ、だまれっ」

 大喝し、清彦を蹴り飛ばす。そして、信十郎は胸元から紙入れを取り出し、転がった清彦になげつけた。

「どうせ、おゆいは、はした金で買われたんだろう。それで充分たりるはずだ」

 その時、おゆいが、納屋から走り出る足音がきこえた。

「まて、どこへいく、おゆい。わたしはお前が好きなんだ。はなさないぞ」

 這っておゆいの後を追おうとする清彦だったが、信十郎にまた足蹴にされ、地べたへ這いつくばった。

「おい」

 と声をかけたのは、渋い顔をしてやりとりを傍観していた小畑であった。

「川井、お前がいまやろうとしていることは、かどわかしだ。犯罪だ」いまにも噛みつきそうな目をして彼は云った。

「かまわない」信十郎は、静かに、だが力づよく答えた。「おゆいは、この旅籠のものたちからいじめられ、この男にはずかしめられている。罪だろうととがだろうとかまわない。俺が連れていく」

「それでも、法度は法度だ。あの娘を助けたいのなら、正当な手続きをふむのが道理だ」

「そんなことをしていては、おゆいは、この先も苦しみ続けなくてはならない。だから、助ける。今すぐにだ」

 小畑はちっ、とひとつ舌打ちをした。

「さっきっから、連れていくの助けるの、きれいごとをならべたてているが、貴様、自分が隊を脱走した罪人だということを忘れているんじゃないのか。だいいち、俺から逃げられると思っているのか。ふざけるな。きれいごとを云いたければ、俺を負かしてからにしろ」

 小畑の気持ちはまだ収まらないようだった。腹の中の怒りをすべてぶつけるように、言葉は続いた。

「お前は人でなしだ。藤堂さんの信頼をふみにじり、隊規をないがしろにし、自分のことだけしか考えない人でなしだ。たしかに、あの娘はかわいそうだ。ここに置いておけないが、だからと云って、お前みたいな人非人にわたすこともできない。娘は我らがなんとかする。お前は、余計な心配はすてて、俺に斬られて死ね」

 彼の言葉は直截だった。世間の穢れをまだ知らない、若者特有の潔癖な正義感が怒りに変じ、信十郎へむけた憎悪の炎に、薪をくべるようにして燃えあがらせているのだった。

 かたわらでは清彦が、よろよろと立ちあがり、おぼつかない足どりで、おゆいの駆けていったほうへ、力なく歩いていこうとする。彼は、にらみあう二人の間に、ふらふらと入りこんできた。

 それを、信十郎は蹴りとばし、清彦の身体は、小畑へ寄りかかるように倒れこんだ。

 その隙に、信十郎はくるりとふりかえって、走り出す。

「まて、川井」

 小畑は清彦を突きはなして、信十郎の後を追った。

 信十郎は、旅籠の庭を横切って走る。敷かれた砂利が、裸の足裏を傷つけたが、かまっている暇はなかった。池の脇を走り、密集した孟宗竹をかき分け、東側にある腰の高さくらいの竹垣を乗り越えて、さらに湖岸を進む。

 信十郎が打ちあげられていたのは、湖岸の、旅籠よりもすこし北にある、一本杉のあたりだそうで、月明かりでおぼろに浮かぶその杉へとむかい、彼は駆けていく。

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