一の十一

 おゆいは、湖にむかって、手を合わせていた。

 彼女は、いつも、仕事の合間に、宿のものの目をぬすんで、この一本杉の浜辺に来ていたのだった。

 熊蔵おじちゃんが云っていた。

 この湖の、ずっと、ずっとむこうには、竹生島ちくぶしまと呼ばれる、弁天様という神様の住む島がある、と。

 おゆいは、その島がここからどれくらい遠くにあるのかも、その神様がどんな神様かすらも知りはしなかったのだけれど、とにかく、湖のむこうにいる神様にむかって、そっと手を合わせて祈ったのだった。

 ――べんてんさま、べんてんさま、わたしを助けてください。このつらい生活から救いだしてください。

 毎日、毎日、お百度参りのようにそれはつづけられた。

 何度も、何度も、一本杉のたもとに脚を運び、叶うかどうかもわからない願いを、弁天様に送りつづけたのだった。

 そして、信十郎が現れた。

 ――べんてんさまが使わしてくれたのにちがいない。

 それは、まだ幻想と現実の境界を見定めることもできない少女の、少女らしい思い込みにすぎず、ほんとうは偶然がひきおこした奇跡的な出来事にすぎなかったのだけれど、ともかく、自分を救ってくれるかもしれない人が、目の前にあらわれた。

 ――ありがとうございます、ありがとうございます、べんてんさま。

 いま、おゆいは瞳を涙でにじませて、弁天様に感謝するのだった。


 追ってくる小畑の足音が、ほとんど耳元で聞こえるようだった。これでは、目的地へたどり着く前に、背中から斬られてしまいかねない。

 信十郎は、もう戦うしかない、と思いを決めた。

 地面をすべるようにして足をとめ、身体を後ろに向けた。

 小畑は意表をつかれたようだったが、かまわずに走りよってくる。

 信十郎は、鯉口を切った。

 刀身は湖につかって、まったく手入れをしていなかったものだから、おそらく錆が浮いてしまっているのだろう、ひどく抜きにくいのを、強引に鞘から引き抜いた。

 そのまま、正眼に構える。

 居合は、最初の一撃が恐ろしい。下手に防御したところで、刀がはじき飛ばされるだけだろう。反対に云えば、最初の一撃さえかわせれば、勝機は格段に上がる。

 だが、信十郎に対策を考えるいとまなどありはしなかった。

 小畑が近づく。

 五間、四間――。

 呼吸をひとつするたびに、ふたりの距離が縮まって、小畑が腰の刀に手をかける。

 三間、二間、一間――。

 信十郎が、身体をちょっと、横へとずらす。

 小畑は、それを、抜刀を受け流すために体勢を作ったのだと瞬時に判断したのだろう。好機と見、走る勢いをのせるようにして、刀を鞘走らせる。

 月光をうけて、小畑の刀がひらめく。

 だがしかし、その刀は空をきった。

 小畑は、あ、っと声をだした。そんなはずはない、暗がりとはいえ間合いはしっかりとはかっていた――、と。

 小畑が信十郎の左脇を駆け抜ける。

 信十郎は、それにあわせて刀を振った。

 小畑の胸にあたった刃は、走るの勢いのままにすべっていき、その胸を右から左へと、ざっくり斬り裂いた。

 脚をもつれさせて、どっと小畑が倒れる。湖岸の砂利まじりの地面に、がらがらと音をたててすべって、そして身体がとまった。

 信十郎は、それを目で追った。

 倒れた小畑が、すぐに身体をよじって、信十郎を見た。

 傷は、おそらく肺にまで達しているだろう。

 致命傷だった。

 だが、錆の浮いた刀で斬ったためか、即座に絶命させるにはいたらなかった。

 このままでは、長時間くるしみながら、死んでいくことになるだろう。

 それでも小畑はあきらめることはせず、今生に執着するように懸命に身体を起こそうとしていたし、左手で落とした刀をさがし、右手を信十郎へ向けて、なにかをつかもうとするように突きだすのだった。

 信十郎は、小畑へとゆっくりと近づき、首に刃をあてると、すっと払って血脈を斬った。

 血飛沫があがり、暗い大地が黒く染まっていった。

 小畑はすぐに動かなくなった。

 その目は憎悪に満ちた眼差しで信十郎をにらんだままで、口は恨みの言葉を吐き出しそうに、うめくように開いたままで――。

 信十郎は、新選組に入隊してから、ずいぶん人を斬った。もう人殺しにも慣れきっていると思っていた。だがいま、これまで感じたことがないほどの不快感がこみあげてきた。なりゆきとはいえ、斬らなくてもいい人間を斬ってしまったという、悔恨につつまれていた。

 だが信十郎は後悔を振り払うように首をふる。やらなくてはならないことがある、まっている人がいる。刀を鞘に収めると、一本杉へ向けて歩き出した。

 杉は、やがてその輪郭をくっきりと描き出し、その下にたたずむ、小さな子供の影もはっきり見えてきた。

 信十郎は、おゆいに、静かに近づいた。

 彼女は湖を見ていたようだが、ふいにしゃがむと、ふところから取りだした下駄を、彼のまえにそっとさしだした。

「うん」と云って、信十郎は、鼻緒に指をとおした。

 白い月が、冷たくふたりを照らす。

 ここは湖畔の、すこし盛り上がっている雑草ばかりの丘陵地で、その真ん中に杉の木が一本だけはえていた。

 見回してみても、何もない。

 「俺を見つけたとき、お前はこんなところでなにをしていたんだい」

 信十郎が訊くと、おゆいは、にっと笑っただけだった。

 月明かりの加減だろうか、ちょっと、感情がにじんだ笑顔にみえた。

 信十郎は、おゆいを抱きあげた。

「さあ、行こう、おゆい」

「けど、川井さまのご迷惑に……」

「なりはしない、けっして」

 信十郎の頬に、おゆいの小さな息がふれた。

「それとね、もうそんな丁寧な言葉は使わなくていいんだよ。俺のこともおじちゃんでいいんだ」

「うん」

 おゆいは、信十郎の首にまわした腕に、ぎゅっと力をこめた。

 信十郎も力をこめて抱きしめた。頬と頬がふれあった。

「おじちゃん」

「なんだい」

「おひげが痛い」

「そうか」

「うん」

 信十郎は歩きだした。

 聞こえるのは、さわさわと打ち寄せる波の音だけだった。

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