一の五

 彼女は、数瞬驚いた顔のままでいたが、すぐに、その顔はうろたえたように変じ、なかに入ってくると戸を、慌てて閉めた。

 そして、土間から飛び上がるようにして床にあがると、信十郎のもとにかけよってくる。

「いけません」

 と少女は、小さな、抑揚のない声で言った。

「まだ、動いてはいけません」

 信十郎は、少女をじっと見つめた。

 すぐ目の前にいるのに、身体全体が視界に収まるほど小さく、しかも、手指は、あかぎれだらけだったし、顔をみても肌にはつやがなく、ろくな生活はおくっていない少女だと、すぐに見てとれた。

「お前が、わたしの手当てをしてくれたのか」

 少女はこくりとうなずいた。

「ありがとう」

 と礼を云うと、またこくりとうなずく。

「あの、とりあえず、厠へいかせてもらえないかな。それと、咽喉のども渇いていてね」

 少女は、ちょと考え顔をすると、土間から、蓋のついた桶を持ってきて、

「これに……」

 と云う。

 信十郎には、少女の意図がまるでわからない。桶がなんだというのだろう。

 わけもわからず、桶を受けとって蓋をあけると、その内側から、いささか妙なにおいがした。

 これを便器にしろ、とでも云うのだろうか。

 信十郎が思いながら少女をみると、少女もみつめかえして、こくりとうなずいた。

「しかし、小便のかたづけを、お前にやらせるわけにはいかない」

「いえ」と少女はすぐに返事をした。「私も、夜は、それを使っていますので」

 信十郎は、眉をひそめた。この少女の云うことは、まるっきり常軌をいっしている、とさえ思えた。

「二階へ」

 と少女が小さく云った。

「すぐに、水と、食べ物を、持ってきます。小屋から出ないで、ください」

 ひとことひとこと考えながらというふうに、とぎれとぎれに云って、少女は戸口から出ていった。

 信十郎は、少女に命じられるまま、二階にあがって、小便を桶にだしてしまうと、布団に身体を横たえた。

 四半刻も立たないうちに、少女が、湯飲みにいれた水と、米と粟の混じった握り飯を木皿にのせて持ってきてくれた。

布団のうえに身体をおこして、信十郎は訊いた。

「名前はなんというね」

「ゆい」

「そうか」

 信十郎はあごに手をあてて、のびた髭でおおわれた肌をさすりながら、次の言葉をさがした。

 この少女がひとりで、寝ているあいだのいろいろの面倒をみてくれたのであろうか。

「おゆい、私は信十郎という」

 おゆいは、こくりとうなずいた。

「私がここへ運ばれて、何日ほどたつね」

「三日ほど」

「そうか。ここはお前の家かい」

「はい、いいえ」

 おゆいの奇妙な返答に、信十郎は小首をかしげた。

「ここへ運んでくれたのは、だれだい」

「くまぞうのおじちゃん」

「それはお前のおじちゃんかい」

「ううん、近所のしじみとり」

「そうか」

 やはり不思議な少女だった。

 声は小さくて抑揚がなく、目は常におどおどと左右に揺れていたし、瞳はにじんだようになって感情が読みとれなかったし、顔の表情もとぼしく、まるで、子供らしさのない、人生に疲れ果てた中年女といったふうだった。

 そして、信十郎が、水をひとくちすすり、握り飯に手をのばして、

「ありがとう」

 と届けてくれたことに礼を云うと、少女は、にっとほほ笑んだ。

 信十郎は、その笑顔をみて、ぞっと背筋にさむ気が走った。

 たしかに顔は笑っているのだが、それは人形のような、まるで心のこもっていない作られた笑顔だった。

 ――子供が、こんな笑いかたをするのか。

 思わず、目をそらした。なにか、見てはいけないものを見てしまったような気すらしたのだった。

 おゆいは、信十郎の排泄物の入った桶を持って出ていった。

 食事が終わってしばらくすると、階下の戸が開けられ、あきらかに大人とわかる足音が、迷わずに二階へと向かってくる。

 さて、どうしたものか、と信十郎は考えた。

 刀は、枕元にならべて置いてあった。

 それに、手を伸ばそうとしたところ、階段口から、ぬっと男が顔をだした。

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