一の六
「旦那、おめざめですか、旦那」
としわがれた声で、ぶっきらぼうな喋りかたをする、五十がらみの男がこちらをみている。
ひきしまった身体つきをして、肌はまいにち陽のしたで働いているとひと目でわかるほど黒々としていた。
おそらく、おゆいの云っていた、漁師の男だろう。
「お、もう起きてましたか。傷はどうです、痛みますか」云いながら布団のわきまできて腰をおろした。
「いや、それほどでもない」
「そりゃよかった。あたしは、熊蔵ともうします」
「ああ、やっぱり。いろいろと世話になったね」
「いえ、あたしゃ、なんにもしちゃいません。おゆいが、岸で人が倒れているから、小屋に運んでくれ、と頼みにきたんで、運んでやって、膏薬やら包帯やらをとどけただけです」
「そうか、ありがとう」
「旦那」と熊蔵は、余計な話はしたくないように、急くように云う。「はっきりいいますが、傷が治ったんなら、はやいとこここを出ていってくんなさい」
唐突だった。云っていることは懇願のようであったが、たのまれているというより命令されているようであった。
信十郎は、返事に困った。云われなくとも、彼自身はやく出立したいのはやまやまだが、ここがどこだかも、今どういう状況になっているかさえ、わかっていないのだ。
「あの子はね、いい子なんです」信十郎のとまどいをよそに、熊蔵はつづけた。「あたしはね、あんたを、番屋に届け出るつもりだったんだ。だけどね、おゆいがダメだと云う。なぜと聞くと、この人は、悪い人に追われているのではないか、だから、隠してあげたい、と云うんです。あんたが本当に善人かどうかもわからないのにですぜ」
熊蔵は、さらに、まくしたてるように喋りつづける。
「おゆいが、この店でどんな目にあっているか、ご存じじゃないでしょう。そこに、あんたみたいな、何者かもわからない男をかくまっていると店のものに知られたら、なにをされるかわかったもんじゃない。あたしはね、あの子が不憫でならないんです。どうか、すぐに出ていってくんなさい」
「いや、出ていくことには異存はないが、まず、話をきかせてくれ」
「なんです」
「ここはどこだ」
熊蔵は、え、という顔をした。そして、腕をくんで首をひねり、考え込むような仕草をする。
「すんません、旦那。どうも、あたしはせっかちでいけない」
「いや、いいんだ、教えてくれ」
「ええ、そうですね。ここは、
「ところはどこかな」
「
そうか、と信十郎も考え込んだ。思っていたよりも、ずいぶん流されたようだ。よくおぼれなかったものだと、肝をひやす思いだった。
「いや、世話になった」と信十郎は熊蔵に頭をさげた。「あんたの云うとおり、すぐにでていくよ」
云って、枕元の紙入れに手をのばした。それは、刀といっしょにならべておいてあって、中のものには、いっさい手はつけられていなかったのを、さきほど確認している。
中から、一分銀をとりだすのを、
「よしてください。あたしゃ、おゆいのためにやったんですから」
いかにも不愉快だというようすで熊蔵は立ちあがり、金はうけとらずに床を踏み鳴らして小屋から出ていった。
信十郎は、彼の自尊心を大きくそこなったことを、恥じた。だが、その悔悟はすぐに消え去り、ゆくすえに対する不安が心中を支配していった。
「さて、どうしたものか」
傷にさわらぬように這うようにして、明り取りの窓までいき、外の様子をうかがった。
窓からは、半町ほどさきに岸がみえ、湖面が静かにゆらいでいた。
新選組の追っ手をやりすごすためにも、もうしばらく、ここにいさせてもらいたい、という思いがある。だが、そうすることで、熊蔵の云うように、おゆいに迷惑がかかるというのなら、別の手段を考えなくてはいけない。
だが、二日がすぎた。
すぐにここを離れなければ、と思いながらも、おゆいの親切にあまえ、納屋にいつづけることになってしまった。
信十郎は目が覚めた日の夜に、出ていくつもりで、おゆいに礼と別れの挨拶をした。
だが、おゆいは、
「傷が、まだ」
とぽつりと云って、首を横にふった。
子供の云うことなど無視して出ていくこともできたが、なぜかそういう気持ちにはなれなかった。
静かな声で、もう少し寝ていなくてはいけないと云われると、なぜだかそんな気になってきたのだった。
それはやはり、おゆいに甘えているのかもしれなかった。
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