一の七

 信十郎は、顎に手をあてて無精髭をもてあそびながら、窓から旅籠をみていた。

 琵琶湖が見える窓とは反対側の壁にも窓があり、そこからは、宿の庭の様子が一望できた。

 暖かな陽ざしのなかで、宿のものたちが、右に左にと、忙しそうに走りまわっている。

 縁側を女中が座布団を数枚重ねたのをかかえて走り、泊り客とすれちがうと、愛想がよさそうに、ほほ笑みながら頭をさげ、客もそれに笑顔で応じていた。

 二日のあいだ、ここで旅籠を観察していただけで、おゆいの境遇というものが、ずいぶんわかった。

 宿の者たちからは、牛か馬のように過重な労働を強いられ、なにかちょっとした過怠でもあれば、容赦なく打擲ちょうちゃくされる。

 これはとくに、女将とみえる初老の女がひどかった。おゆいに対するいたわりなどは微塵もみせず、鞭うつように働かせ続けていた。

 しかも、夜ともなれば、逃亡を防止するために、納屋には外から鍵がかけられて、厠へいく自由さえもあたえられない。

 おゆいは、この旅籠屋では奴隷でしかなかった。


 信十郎とおゆいは、もう、ずいぶん話をした。

 宿でこきつかわれる彼女の、疲れた身体を休める時間をうばうわけにもいかないので、それは、眠るまえの、ほんのひとときのつつましやかなお喋りだったが、いろいろなことをおゆいから訊いた。

 おゆいには身寄りはいないという。

 三つ、四つのころから親類じゅうをたらいまわしにされ、最後に面倒をみた遠縁の百姓夫婦は、首の根もまわらぬほど借金にまみれていて、おゆいはすぐに年季奉公に出された。売られたようなものだった。

 そして奉公先であるこの旅籠でも、人として扱われなかった。

 この少女は、小さな身体で、信十郎が想像もできないような惨苦のなかを、もがくように生きてきたのだった。


 だが、この旅籠の息子はちょっと違っていた。

 まだ、二十歳前とみえる、背が高くてふっくらとした体格のその息子は、おゆいに優しく接しているようだった。

 名は、清彦きよひこというらしいこの息子だけが、おゆいの味方のようだった。ちょっと鈍なところがあって、気が利かないものだから、なにか働いていても、奉公人から邪魔者あつかいにされていたりもするのだが、この人よさげに微笑む青年の、おゆいをみる目には慈愛があふれているようだった。

 今も、井戸端で洗濯をしているおゆいのところへ、のっそりと大柄な身体をもてあますような足どりで、清彦が近づいていった。

 ふところからとりだした袋のようなものをおゆいに渡している。飴かなにかだろう。

 もらったおゆいは、あの心のない笑顔とともに、頭をさげている。

 信十郎は、ふたりを見ていて思った。彼さえいれば、おゆいはやっていけるだろう。人は、世界に味方がたったひとりいさえすれば、生きていけるものだ。

 と、清彦は、人目がないことを確かめるように周りをみわたす。

 なぜそんなことをするのだろう、と信十郎は不審に思った。あきらかに無意味にみえる動きだった。ちょっと嫌な予感がした。

 すると、清彦はおゆいの頭を抱えるようにして力いっぱい抱きしめ、なでまわし、少女の温かさを堪能するように、身体全体をゆすっている。

 信十郎は、唾棄したい気分になった。

 ――この旅籠に、まともな人間はいないのか。

 清彦は、しゃがんでおゆいの顔と自分の顔の高さをあわせると、今度は頬ずりをしはじめた。

 信十郎は、全身が怒りで満たされていくのがわかった。ちょっとでも清彦がいい人間だと考えてしまった自分の眼識のなささえも不快だった。

 清彦を殴りとばしてやろうと、立ちあがった。

 だが、その時、どこかから女将の声が聞こえた。清彦を呼んでいるようであった。彼は乱暴におゆいをつきとばすと、声のしたほうへ走り去っていった。

 おゆいは、なにごともなかったように、おそらくもうそんなはずかしめには慣れきってしまっているのだろう、すぐにまた洗濯仕事をしはじめている。

 信十郎は、当初、おゆいは常軌を逸した少女だと思った。だが、常軌を逸していたのは彼女ではない。この宿の者たちだった。彼女のあの奇妙な笑顔も、いつもおどおどと落ち着かなげに動く目も、すべてこの境遇のなかで身についたものだったのだ。

 やはり、ここをすぐに出て行こうと決意をかためた。

 ここにいても、気分が悪くなるばかりであった。

 出ていくのは、深更と決めた。鍵のかかった戸など、蹴りやぶってやるつもりになっていた。

 陽はずいぶん傾いているようだ。

 夜までしばらく眠っておこうと、布団に身を横たえた。

 ではあるが、すぐに、おゆいはどうしよう、という思いが頭にわきあがり、なかなか寝付けなかった。

 いっそのこと、さらっていこうか、とすら考える。

 だが、信十郎は追われる身だった。

 おゆいに危害がおよぶかもしれない。反対に彼女が足かせとなって、自分が危地に陥ったりはしないだろうか。

 とはいえ、周りの人間たちから虐待され、こんなかびくさい小屋に寝起きして、ヤモリと油虫にかこまれて生きている彼女をほうっておいていいのだろうか。

 どうしよう、どうしよう。

 しかし、だんだんゆっくりと、彼の思いははまどろみのなかに溶け込んでいったのだった。

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