六の八

 藤堂平助は湖をながめていた。

 約束の刻限はとうに過ぎて、もう川井信十郎はやってこないだろうと見きわめをつけて、どこか安堵したような、どこか残念なような気持ちで、景色をながめていた。

 空は、もうすっかり明るくて、しかし、一面雲におおわれていた。琵琶湖の西岸につらなる名前もしらない山々のむこうには、真っ黒な、まるで大量の水けを抱えたような雲がちらほらと尾根から突きだすようにしてあったが、上空は白くて薄い雲がおおっていた。その白さは無垢な白絹のようで雨が落ちてくる不安などはなく、安らぎをおぼえるほど美しくみえた。

 ――川井が来ないのなら、それでいいんだ。

 平助はどこかゆったりとした気持ちになっていた。

 だんだら羽織のうえから襷をかけて、袴を尻からげにまでしている自分がちょっと気恥ずかしいくらいだった。

 それでいいんだ。果し合いを申し込んだのは、ただ単に俺の、新選組の隊長としての体裁ていさいを取りつくろっておいたにすぎないのだから――。

 湖面は太陽が出ていないせいか、鉛のように黒くてあまり美しくはなかった。その湖面を、丸子船が帆をあげて何艘も行きかい、漁船にのった漁師が――なにをとっているのかはわからないが――網を引きあげていたりするのがちらほらとみえた。

 平助はそんな船たちをながめ、湖水をながめ、山々をながめていた。まったく無心になったように、ただながめていたのだった。

 ふと、後ろのほうで人の気配がした。

 振りむいた平助は、顔には出さなかったが、内心で愕然としたのだった。

 信十郎が、ちょっとの間、お結という娘と何かを話してから彼女を原っぱの端に残し、こちらに向かって歩いてくる。

 ――なぜ、来たんだ。

 藤堂平助は、近づいてくる男の姿を見つめて思った。

 まさか、俺が、国元まで追っていくとでも思っているのか。だからここで決着をつけようとしているのか。馬鹿な。福井まで追っていくなど、現実的に不可能な話ではないか。

 ――それとも。

 と平助は考えを続けた。

 決闘から逃げるのが卑怯なことだとでも思っているのか。そんな時代錯誤な考えに縛られてここまできたのか。逃げればよかったのだ。果たし合いの約定を無視したなどという、ちっぽけな汚名をかかえるくらいなんだというのだ。生きながらえて、その娘との生活に耽溺すればいいではないか。

 信十郎の歩みはしごく自然にみえた。

 その顔は、決闘の勝敗を超越したような、まるで無我の境地にでもいたってでもいるようで、その眼差しからも身体の運びからも、決闘に望む悲壮感も見えなければ、気負いのようなものも感じなかった。

 ――こんなことなら、さっさと帰ってしまえばよかった。

 平助は悔いた。琵琶湖をながめて物思いにふけっていた自分を悔いた。

 現れたからには斬らねばならぬ。新選組の八番隊隊長である以上、戦って勝たねばならぬ。

 信十郎は、三間ほど間をあけて、脚をとめた。

 そしてしばらく平助を見つめた。そして口をひらいた。

「藤堂さん」と信十郎は新選組にいたころとかわらない口ぶりで云った。「もし私が負けたら、あそこにいるお結を、庭戸の研師の経国のところまで連れて行って欲しい。どうか、もといた旅籠にはかえさないで欲しい」

「杞憂だな」平助は、内心で苦笑して答えた。ここにきて、まだあの少女の心配をしているのか――。「たのまれなくても、それくらいのことはしてやるよ」

「たしかに杞憂だな。勝つのは……」

 俺だから、と云いかけて、信十郎は自嘲するように、静かに笑った。

 平助も、静かに笑った。

 信十郎は刀の下げ緒をほどいて、するすると襷がけにすると、袴の股立ちをとった。

 そして、ふたりは同時に剣を抜いた。

 ――秘剣はやかぜは、きっとあれだ。

 平助の心に思い浮かぶものがあった。

 それはあの時、最初に琵琶湖の崖の上で戦ったとき、信十郎の刀の切っ先が奇妙な動きをした気がしたのだ。微妙に切っ先が左右にぶれたように見えたのだった。そして振り上げられる刀に釣り上げられるようにして平助は剣を振った。まるで自分が斬ったという手ごたえのなかった、あのひと太刀。

 ――轟は詐術のようだったと云った。

 それであの、自分の意思ではない別の何かが動かしたようだった腕の感覚を思い出したのだ。

 おそらくあれは秘剣はやかぜを失敗したのだ、と平助は結論づけた。

 ――しかし、次は見破ることができるだろうか。

 ふたりはたがいに正眼に構えた。

 儀礼のように、切先をいちど撃ちあわせ、双方とも一歩さがって間合いをとった。

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