六の七

 信十郎は、お結の手を握った。その温もりや、その感触を、心に刻むように強く、しかし優しく握った。

 信十郎はそうやってお結の手を握って、ゆっくり歩いた。

 琵琶湖畔までは五町ほどだったけれど、静かにゆっくり歩いた。

 村落を抜けると見渡すかぎり田んぼが広がって、湖面との高低差もあまりないものだから、田畑の間の道の先がそのまま湖水に落ちこんでいるように見えるのだった。

 寺を出てからずっと、信十郎はひとことも口をきかなかったし、お結もなにも喋らなかった。

 お結は、これから何が起きるのか、はたして理解しているのか、それは信十郎にもわからなかった。

 信十郎は、とにかく、藤堂平助との決闘にのぞもう、とだけ考えていた。

 お結の将来ことも、自分の彼女に対する気持ちのゆきさきについても、考えるのは勝敗がついてからにしよう、と思っていた。

 いちどは、勝負から逃げ出すことも考えた。

 だが、平助は福井まで追ってくるかもしれなかった。一生追っ手の影におびえながら暮らすのは、嫌だった。たとえ追ってこなかったとしても、なにか自分の心に汚点を残すような、あと味の悪いものをかかえて生きていかなくてはならない気がして、それも嫌だった。

 一歩進むたびに、一歩琵琶湖が近づいてくる。

 それは、旅の終焉がそこにあって、しかし、心の片隅のどこかでは終わらせたくない気持ちがあるような、複雑な心境を抱えた足取りだった。

 ふと、お結が脚をとめた。

 信十郎も脚をとめた。そして、お結をみた。

 お結は、まっすぐ前をみていた。まるで、信十郎の目を見るのが怖いとでもいうように、必死に目を動かすまいとするようにして、前をじっと見つめているのだった。

 その手は、精一杯の力をこめて、信十郎の手を握っていた。これ以上すすませないように、ここにとどめようとしているのだと、彼にはわかった。

「お結」

 信十郎は声をだした。なにか心が声をだすなと云っているのにさからって、無理に喉の奥から声をだすように、かすれた声をだした。

「行こう。なにも心配することはないのだから」

 お結は言葉をかえさなかった。ただ、その手の力を、さらに強くしたのだった。

 信十郎は脚を進めた。お結は、さからわずについてきた。

 やがて、道がとぎれた。

 道は、琵琶湖ぞいの道と交差していた。

 その向こうには、雑草の茂る草原があって、一町ほど先が湖で、さらにその一里ほど先には竹生島が浮かんでいるのがみえる。

 湖面は空をうつしたように鈍色にびいろをしていて、波が白い筋を描いて岸にうちよせていた。

 そして、その背の低い雑草が生い茂る草原のなかほどにたって、湖をみていた男が、気配をさっしたようにくるりと後ろをふりかえり、信十郎をみたのだった。

 信十郎はしばらく彼を、――藤堂平助をみつめ、そしてしゃがんで、お結の目をみつめた。

 お結は、今度は信十郎の目を、しっかりと見つめかえしてきた。その目は、しっとりと濡れて、こきざみに震えていた。

 信十郎は、ふところから一通の書状をとりだした。その封書には、昨晩したためておいた手紙とともに、今あるすべての路銀が包んであった。

「いいかい、お結」

 と信十郎はほほ笑んで云った。

「もし……、もし万が一わたしに何かあったら、この手紙を、こないだお世話になった研師の経国さんにわたすんだ。経国さんの家まで送ってもらうように、あそこにいる藤堂のおじちゃんに頼んでおくから。あの人の云うことをちゃんときいて、いい子にするんだよ。いいね」

 お結は何も云わず、ただ信十郎の目をみつめていた。そして、瞳だけではなく、唇もこきざみにふるわせはじめた。

 信十郎は、お結の頬を、両手でつつむようにした。

 心配しなくていいんだよ、勝負に勝つのは俺だから、とは、なぜか云えなかった。口にだすと、反対に負けてしまう気がしてしかたがなかった。

 お結の震えがおさまるのを待って、信十郎は手をはなすと、ゆっくりと立ちあがって、平助に身体を向けたのだった。

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