三の三

 信十郎は、あわてて、お結を後ろにかばい、刀の鯉口を切った。

 彼は、二間ほど離れて立ちどまって、はあはあとあえいでいた。

「貴様、何の用だ」

 信十郎は怒声とともに、刀に手をかけた。

「いったいどのつらをさげてっ」

 そのあとは、言葉にならなかった。怒りが心身を支配し、信十郎から冷静さを奪ってしまっていた。

 清彦は、顔じゅう殴られた痣だらけで皮膚が青黒く変色していたし、口の横などは、まだ痛々しく赤く腫れあがっていた。それに、信十郎に脇腹を蹴られたときに、肋骨を折っているはずだった。良くてもひびは入っているだろう。痛みのせいで歩くのも困難なはずの身体だった。それなのに、このように走って、ふたりのあとを追ってきた。

 彼の、お結にたいする恐ろしいまでの執念が、信十郎の全身を覆ってくるようで、鳥肌がたつような思いがした。

 すると、突然彼は、大柄な身体を折りまげて、両膝をつくと、地面に額をこすりつけるほどに頭をさげた。

「もうしわけありませんでした」

 泣くような声で、唐突に謝罪するのだった。

「私は、川井様に殴られ、目が覚めた思いがします。これまでの、おゆいに……、おゆいさんに対する不埒なおこないの数々、つぐなってもつぐないきれるものではありません。私は心を入れかえました」

 そして、彼は顔をあげ、信十郎を真っすぐに見て云うのだった。

「私を供に加えてください。せめて、国境まで送らせていただきたいのです。お願いです、お願いです」

 ――芝居だ。

 信十郎は看破した。あきらかに言動が芝居がかっていて嘘くさく、はいそうですかと、にわかに信じられるものではなかった。

 できることなら、今すぐに、この男を斬ってすてたい気持ちだった。

 だが、土下座をしている男に、侍が刀に手をかけて今にも抜かんとしているこの状況を、遠くで畑仕事をしている百姓が手をとめてみているし、北からも南からも、土地の者らしい人々歩いてきて、不審そうにこちらを眺めながら、道のはしに身をよけて通りすぎていく。

 信十郎は何も云わなかった。ただ、

「お結、行こう」

 と背中を押すようにうながしながら、踵をかえした。

 ただ、無性に腹がたつのだった。お結に対してあれだけのことをしておいて、今さらゆるしてもらえると思っているのか。人間をなめているとしか思えない行動だった。

 ――厚顔無恥とは、あのような男のことを云うのだ。

 信十郎は、怒りのせいで荒々しく足をふみしめながら、歩くのだった。

 お結は、おびえたようにまだ信十郎の袴をつかんでいて、彼は、彼女の肩をそっとだくようにしてやった。

 それで少しは安心できたのだろう、お結は、すがりつく手をちょっとゆるめた。

 しばらくいって、ちらとふりかえってみると、清彦は、五、六間ほどあいだをあけて、必死な、真剣な形相をして、ふたりのあとをついてきていた。

 目は決意の固さをあらわすように、まっすぐ前を見つめていたし、足どりも一歩一歩に力をこめていて、まるで、今の生まれ変わった自分を見てもらいたい、とでも訴えかけているようだった。

 ――騙されてはいけない。

 信十郎は自分に云い聞かせた。

 すべては、信十郎とお結を油断させるための芝居なのだ、信用したら最後、寝首をかかれたあげく、お結はまた彼のもとで辱めをうけるだろう。

 やがて、馬崎という宿場に到着した。

 宿も二、三軒しかない小さな町で、手前にあった二軒はすでに客でいっぱいだったので、しかたなしに、そのなかでも一番小さくて古めかしい旅籠に泊ることにした。

 上がり框に座って、足をすすいでもらっていると、清彦がのれんをくぐって入ってきて、番頭に部屋が空いているかと訊いている。

 番頭は、あいにくもうすべてふさがっていまして、などと申し訳なさそうにあやまっているのに、清彦は相部屋でもいいから、納戸でもいいから、などと懇願しているのだった。

 番頭が、こちらに顔をむけ、口を開きかけた。それをおさえるようにして、信十郎は、

「いや、私たちは、困る」

 ときっぱり云いきった。

 それでも渋る番頭に、娘がいるから、と云ってさらに追い打ちをかけるように断ったが、彼はお願いしますお願いします、と平身低頭のていで頼み込んでくるのだった。

 しかも、清彦まで寄ってきて深々と頭をさげる。

 他の宿のものたちもどうなることかと不安げにこちらをみているし、ここで断ったら、まるで人でなしのようで、承知せざるを得ない状況に追い込まれた気分だった。

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