三の二

 藤堂平助は、皿のうえの落雁をひとつつまんで、口にいれるとすぐに茶をすすった。

 必ず勝つという確信があった御堂たち三人組が、まさか川井に敗れるとは意外にすぎた。あの、酷烈と云っていいほど凄まじい三人の連携攻撃を、川井はひとりで打ち破ったという。

 ――それも、はやかぜ、とかいう秘剣のなせるわざなのだろうか。

 考えながら、また茶をすする。口の中にはりつくように残っている落雁を、そっと茶ですすぐようにして飲み込んだ。

 さっきまで部屋にいた桐野咲之介が、いつの間にか姿を消していた。

 桐野は、鳥居本で、脱走した五番隊の広崎という男をしとめ、御堂たちと入れ違いに鱒川屋に到着していた。

 ――あんな不気味な男とは、なるべくひとつ部屋にはいたくないものだ。

 思いながら、なんとなく手持ちぶさたな気がして、立って二階の窓から庭を眺めた。

 この旅籠も、そろそろ引き払おうかと考えていた。

 仙念の藤次がこの周辺で川井信十郎の情報を集めていたとき、この宿のよくないうわさもいくらか拾ってきた。川井が下女の娘をさらっていったというのも、その辺りにわけがありそうだった。

 藤次は、御堂銀四郎たちが川井に倒されたという報告をして、ひと息つく間もなく、また彼を追っていった。桐野とのつなぎにつかっていた探索の者たちも合流していたし、人手が増えたぶん仕事が楽になったようで、川井の足跡を見失わずにずっと追い続けているようだった。

 藤次にしても、桐野にしても、なぜ平助自身が動かないのか不審に思っているかもしれない。

 それは、不良隊士たちも脱走者もろともに始末をしろ、という土方の意向があったからだったが、やはり、気心の通じあっていた川井との対決を避けたい気持ちがあり、川井が残りの桐野か轟に倒されるならそれに越したことはないと思っていた。できれば共倒れになってもらいたいところだが、そう都合よくはいかないだろう。

 庭の隅から、桐野が歩いてきて、辺りをきょろきょろと見まわしている。

 顔には薄化粧をしていたし、粋人をきどっているのだろうか、役者がが着るような白地に桜の花びらを散らした小袖に、新選組のだんだら羽織をつけていた。平助からすれば、悪趣味にしかみえない着こなしだったが。

 桐野は、納屋の前に立ってしばらくすると、まるで川井の逃げた足あとをたどるように、庭を横ぎるように歩きはじめた。

 なにが楽しいのか、微笑を浮かべ、琵琶湖のほうへ悠揚な足どりでと歩いてゆく。

「お前のようなものは、川井に斬られてしまえ」

 平助のつぶやきが、聞こえたわけはないだろうが、そのとき、桐野がこちらに振り返って、口のはしを薄くゆがめたのだった。


 信十郎とお結は、のろのろとした足どりで街道を歩いていた。

 もう、陽も傾きかけてきたというのに、今朝からまだ二里半(十キロ)ほどの道のりしか進んでいない。やはり、子供と一緒だと、どうしても歩みが遅々としてしまうのだったが、そこは覚悟のうえの同道だった。

 このまま西近江路を進んでまっすぐ敦賀を目指すか、それとも湖北をまわって北国路(北陸道)をいくか、どちらの行程を選ぶにしろ、せめて近江をはやく抜け出したいという気持ちがあったが、国境まで、最短でもあと十二、三里(五十キロ)はあるだろう。

 船を使ってひと息に東岸に渡ることも考えてみたが、すぐにその発想は捨ててしまった。乗合いの大船だと、追っ手に乗りこまれたらまったく逃げ場がなくなるし、たとえば漁師をやとって小舟で送ってもらっても、広大な身を隠すもののない湖に浮かぶ舟を追うのは簡単なことで、下手をすると追いこされて、着岸地点で待ち伏せされて襲われることも想定できた。

 やはり、歩いて逃げるのが無難だという結論に達したのだった。

 こうなるといてみたところで、どうなるものでもない、というなかば開きなおった気持ちにもなるのだった。

 それよりも、さしあたっては、今夜泊まる場所を探さなくてはいけない。お結の脚が遅くなったのは、あきらかにに疲れがでているからで、腹も減っているのだろう。

 どこか、この辺りの農家の戸を叩いてみようか、どうしようか、と思案していた時だった。

「おうい、おうい」

 遠く、後ろのほうから声が聞こえた。

 信十郎は、どこかで聞いた声だという気がしたが、呼ばれる覚えもないので、知らぬ顔でそのまま歩いていた。

 だが、お結が、袴の脇を、おびえたようにぎゅっとつかんだのだった。はて、と思い立ちどまる。

「おうい、待ってくれ」

 声は、やはり、信十郎たちを呼んでいるようだった。

 ふりかえって、ぞっとした。

 もう十間ほどの近くに、あの清彦が手を振りながら走って、こちらに向かってきていた。

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