第三章 路のとちゅう

三の一

 川井信十郎と、おゆいは、真昼の目に刺さるような強い陽射しのしたを、北にむかって歩いていた。

 昨晩はあいにく泊れるような宿をみつけられず、しかたなしに、れ寺の軒先で夜露をしのぎ、研師の妻みちの作ってくれた握り飯を、ふたりで食べた。

 そこで一夜を明かし、明け方から歩きはじめていた。

 もう、夜に歩くのはやめにした。

 先日の一件で、どう逃げ隠れしたところで、仙念の藤次たち探索方にいどころをつかまれてしまう、という気がした。

 下手に夜に、提灯も持たずに暗がりを歩いて、待ち伏せでもされたら対処のしようがなかった。

 だったら、昼間に堂々と街道を歩いたほうがいい。

 敵が近づけば、こちらも察知しやすいし、戦いもしやすい。

 もっとも、新選組の討ち手が、鉄砲や弓などの飛び道具を使ってこないという確信があったから、できることだった。

 彼らは、剣で人を屠ることに誇りを持っている。御堂銀四郎のような手裏剣使いはまれで、まず、斬り合いで決着をつけようとするだろう。

「ちょっと休もうか」

 すわるのにちょうど良さそうな岩をみつけたので、信十郎は、おゆいに声をかけた。

 手を引かれていたおゆいは、こくりとうなずいた。

 信十郎は、岩に腰をおろして、竹筒の水を飲んだ。

道のむこうは、雑草ばかりの野原で、その向こうには琵琶湖が広がっていた。

 湖を渡ってくる風はまだ冬の冷たさをいくぶんはらんでいたが、陽は強く照っていて、そのせいで汗ばんだ身体には、ちょうどよい、冷たい心地よさだった。

 こんなとき、子供のほうが疲れをしらないようで、おゆいはすわりもせず、暇をもてあましたように、街道脇の野原を行ったり来たりしたりしていていた。歩いていたと思ったら急に座り込んだり、立ちどまったと思ったら、なにか思いをはせるように琵琶湖をながめていたりする。

 信十郎は、ふと気がついた。

 おゆいは、原っぱを歩くとき、足元にはえた、花を咲かせ始めた野花たちを、うまくよけて歩いていた。

 けっして、それらに目を向けているわけでもなく、前を見たり横を見たりしているのに、足では絶対に花を踏むことはなかった。三階草ホトケノザだとか、鼓草タンポポだとか、そのほかの信十郎が名前も知らないような青や白の小さな花たちの間を、まったく意識もしないふうなのに、ひょいひょいとよけて地面をふむのだった。

 やはり、不思議な娘だと信十郎は思った。

 たしかに、親とはやくに死に別れ、親戚中をたらいまわしにされ、行きついた奉公先で虐待を受けていた、その不幸な生い立ちには憐憫を感じずにはいられなかったが、なにか別の、魅力と云ってしまうと俗になるが、言葉ではいいあらわせないような不思議な引力のようなものを持っている少女だという感じがするのだった。

「おゆい、休むときに休んでおかないと、あとでしんどくなるぞ。ここにきて、いっしょに座りなさい」

 信十郎が手招きすると、おゆいは素直にこちらに歩いてきて、地面に座った。岩は、彼女の身体にはいささか大きかったようだ。

「そういえば」と信十郎は、ふとした思いつきで、おゆいに訊いた。「ゆい、という字は、どう書くんだい」

 訊かれておゆいは、きょとんとした顔で信十郎を見あげた。

「漢字はないのかい」

 と訊くと、こくりとうなずいた。

「意味はとくにないのかい」

 つづけて訊くと、また、こくりとうなずいた。

 信十郎は、頭の中で、いろいろな文字を思い浮かべた。この娘に似合う漢字はどんなのだろうと、なにか楽しいなぞ解きでもするように、思いをめぐらすのだった。

「こんなのはどうだろう」

 彼は落ちていた枝をひろうと、土のうえに線を引いていった。縦だったり横だったりに引かれる線は、折れ曲がったりしながら、やがてひとつの文字になった。

「結――。むすぶ、とも読む。人と人の縁を結ぶ。心と心を結ぶ」

 おゆいは、じっとその文字を見つめていたが、やがて信十郎に振り向き、にっとあの変な笑顔を浮かべた。

 どうやら気に入ってくれたようだ。

「よし」

と信十郎は腰をあげた。

「お結、そろそろ出発しよう」

「うん」

 お結は、返事をして、はずむように立ちあがったのだった。

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