六の十一

 平助は、信十郎の気持ちを察した。もう終わりにするつもりなのだ、と観取した。

 奮然と走りくる相手は、まるで猛牛が突進してくるように思えた。ちょっとたじろぐほどの威圧を感じるが、動きは直線的で予測しやすかった。静かに正眼にかまえて、猛牛を待ち受けた。

「最後の一撃が、そんなこけ威しか」

 嘲弄する平助に、ずんずんと信十郎が近づいてくる。

 間合いに入った。

 入ったその刹那、信十郎は咆哮とともに八双から斬りおろす。

 平助は、受けもよけもしなかった。一歩踏みだしつつ、刀を振り上げた。

 刀を頭上にあげる平助の動きが、信十郎には、なぜだかひどく緩慢に見えた。そして、

 ――勝った。

 と確信し、心の片隅で喜悦した。

 この攻撃は、秘剣はやかぜの応用だった。こちらの攻撃はわざとはずす。刀が空振りしたとみせかけつつ、平助の攻撃も空振りさせて、その隙に、刀をかえして渾身の一撃をいれる――。

 信十郎は迷いもなく、平助のすぐ横の虚空にむけて刀を振りおろした。

 だが、平助は刀を振り上げた格好のまま、動かなかった。

 信十郎は脚をとめた。脚が滑って、体勢がくずれた。かまわずに、そのまま身体をひねって、刀を斬り上げる。

 平助は左脚を軸に、信十郎を追って回転しつつ、大上段から刀を振りおろす。

 信十郎の左肩に、平助の刀が喰いこんだ。

 振り上げかけた信十郎の刀は、手からすべって、地面に渇いた音をたてて落ちた。

 平助の刀が、振りきられた。刃が肩の骨を断って、肺が斬られて、切先がみぞおちから抜けていった。

 信十郎の身体がくるりと半回転して、真っ白な空を見あげながら、倒れていった。彼の見ていた空は、急激に遠ざかって行くようだった。そうして仰向けに、地面に崩れ墜ちた。

 もう、自分がどこにいるのか、どこを向いているのか、目でみている光景が夢なのか現実なのかさえ信十郎にはわからなかった。

 ただ、お結のことだけが頭をよぎった。

 信十郎は首を右に左にこきざみに振った。目をいそがしく動かして、お結の姿をさがした。その首が、右を向いたまま、ぴたりととまった。

 草原のずっとずっと向こうに、小さな姿があった。

 お結は、まだ、手を合わせていた。

「これでいい、これでいいんだ」

 信十郎はささやくように云った。本当に声にでていたかどうかはわからなかったが、自分の未練を、現世で断ち切ろうとするかのように、ささやいた。

 かなたに立つ小さなその姿はすぐに陽炎がかかったようににじんでいって、やがて砂が吹きつけたように細かい粒子が明滅し、しだいに視界のすべてが閃光につつまれたように、まぶしいほどに真っ白くなってなにも見えなくなった。

 信十郎はゆっくりと目を閉じた。

 平助は、じっと立ったまま、動かなくなったかつての親友の姿をみていた。

 友の顔は、まったく自然な、優しげなほほ笑みを浮かべたままだった。肩から腹までざっくりと、残酷な傷口が裂けていて、だがまるで痛みも感じないように、やすらかな面持ちだった。

 ――あなたはいったい、なにを望んでいたのだ。

 平助は、彼のほほ笑む顔に問いかけた。

 新選組を脱走し、気の毒な少女をつれさり、逃げればいいのに決闘をのぞみ、けっきょく、少女を置き去りにして逝ってしまった。

 平助には彼のしてきたことが、まるで虚構のなかをさまよい続けていたようで、ひどく無意味で、現実から逃避していたようにさえ思えたのだった。

 しばらくして、平助は振り向いた。信十郎が最期に見ていたであろう景色に向けて視線を動かした。

 お結は、手を合わせて何かを祈っている。

 目をぎゅっとつぶって、ひたすらに祈っている。

 だがそれは、信十郎に向けられてはいなかった。

 平助は、彼女のその身体のむけられたほうを、みやった。

 琵琶湖の広大な水面のなかに、ぽつりと小さな島がみえた。

「竹生島……」

 小さくつぶやいて、平助はその木々につつまれた島を見つめて、そして思った。

 ――あの娘は何に祈っているのだろう。

 この世には神も仏もありはしないのに。

 ほんとうに神仏の加護があるのなら、お前をそうやって、ひとりにはしなかっただろうに――。

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