旅のおわり(最終回)

「ほら、お結、いつまで油を売ってるんだい、はやくしないと、寺子屋に遅刻しちゃうよ」

 みちは、朝食の粥をお腹に流し込むお結の横に、仁王立ちになって云うのだった。

「わたし、勉強は嫌いよ。将来は、お父さんに研ぎをならってやっていくからいいの」

「ばか云ってるんじゃないの。研師なんて、男のする仕事でしょう」

「あらお母さん、今は徳川時代じゃないのよ、文明開化の明治なのよ。研師が男の仕事だなんて考えは古いのだわ。そんなの明治の合理主義には合わないわよ」

「ええ、ええ、その合理主義の明治の世は学問が大事になるって、お父さんもいってるでしょう」

「研師が学問を学んだって、時間の無駄だわ。読み書きさえできれば充分よ」

「そろばんを覚えておけば、商売にも役に立つんだから」

「そろばんを覚える頭を、研ぎの工夫にあてるべきだわ」

「まったくこの子は、口ばっかり達者になって。いまのあんたをみたら、信おじちゃんは、草葉の陰で泣いてるだろうね」

「あら、信おじちゃんはきっと笑ってくれてるわ」

「どうだかね、つべこべ云ってないで、はやくいきなさい」

「はあい」

 お結は、そそくさと膳を台所にもっていき、そのまま小走りに玄関を飛び出した。

 戸口のそとに立っていた経国が、大きな目を大きく開いて、驚いてわきによけた。

「お父さん、いってきます」

「ああ」

 父はそっけなく答えて家に入っていった。

 さんさんと輝くおてんとうさまが、お結にふりそそいだ。けだるさをふくんだ陽気のなかを、はずむような足どりで門から出た。

 あれから五年の歳月が、お結の上を通りすぎた。

 眉がちょっと太くて、肌が陽に焼けて浅黒いのが難点だったが、近隣の百姓たちから、よくみれば器量よしだ、という評判をもらうくらいには、健康的なかわいらしさを持った少女へと成長していた。

 あの日、お結がこの家の戸口をたたいたとき、夜中であったにもかかわらず、母は、まるで訪れを予期していたようにすぐに開けてくれ、なにも云わずに抱きしめてくれた。お結は、その時、はじめて泣いたのだった。けっして泣くのをがまんしていたわけではなかったのだが、藤堂平助といっしょに数日旅をしてきたあいだ、ただ放心したような感じになっていたのだった。それが、母の顔をみたとたん、涙があふれでてとまらなくなった。お結はしばらく泣きつづけ、母はずっと抱きしめてくれていた。その時の、母の身体のやわらかさや温かさや肌のにおいを、お結は今も忘れずに、ときどきなにかの拍子にふっと思い出すのだった。


 藤堂平助という男を、お結は嫌いになれなかった。

 彼がどこか、信十郎に似ていたせいもあるだろう。

 それは、お結が手をひかれて道を歩く記憶の、その手をひく男が、信十郎であったのか平助であったのか、記憶が混同しているくらい、ふたりの面影は似ていたのだった。

 彼はお結を経国の家に送りとどけたあと、いつのまにかいなくなっていた。

 そしてその後、彼は伊東甲子太郎かしたろうの仲間たちといっしょに新選組と袂を分かち、しばらくして土方たちに粛清されたという話を、風の噂で聞いた。

 鱒川屋ますかわやという旅籠は、女主人が卒中で倒れたすきに、番頭に身代を乗っ取られてしまったそうである。清彦と女主人のゆくえは、わからない、と熊蔵が教えてくれた。

 ちなみに熊蔵とは、こちらに住むようになってすぐに連絡をとって、それからは、なにかにつけて、蜆や鮎など、琵琶湖で取れた魚介を届けてくれていた。

 平助の変転を聞いた時も鱒川屋の顛末を聞いた時も、お結は、なんの感動もしなかった。うれしいともかわいそうだとも、わきあがるものはなにもなく、ただ、なるようになった、と思っただけだった。


「おや、お結ちゃん、寺子屋かい」通りかかった畑で働いていた、隣家の百姓の男が、鍬を振る手をとめて声をかけてきた。

「あら、おじさん、おはよう、いつもご精がでますね」

 にこやかに声をかえすと、ますます楽しげに足をはずませて、琵琶湖の畔までやってきた。そこは、こんもりと盛り上がった草地で、あの一本杉のはえた岡にちょっと似た雰囲気の場所だった。

 そうして、

「弁天様、弁天様」

 お結は今日も、湖水のかなたにいる弁天様に手をあわせた。

 ここから竹生島は見えなかったが、かつて見たその島の景色を、心に浮かべながら祈った。

 それは、毎日毎日、日課のように続けていて、最初のころは、信十郎の冥福を祈ったり、今の自分の幸せを感謝したりしていた。だが、いつのころからか、ただ無心で黙拝するだけになっていて、それでも彼女は毎日かかさずに手をあわせるのだった。

 目をひらき、あわせた手をおろすと、あたたかい風が頬をなでるように吹いた。

 春の訪れを想わせるその風を心地よく感じながら、お結は足早に寺子屋へむかって歩きはじめた。

 琵琶湖は今日もあおく輝いている。



(完)

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