第五章 長浜の女

五の一

 川井信十郎は、背中にお結をおぶったまま、行こうか戻ろうか、思案にくれていた。街道を数歩先に進んでは、ふと立ちどまって、また数歩もどる、そんなことを、もう何度も繰り返していたのだった。

 長浜に渡ってから旅籠で一泊し、翌早朝に宿をって、昼も近くなったころ、突然お結が熱を出して、倒れてしまった。

 長浜の町からはもう二里ほども離れてしまっているし、かといって、このあたりの村では、充分な治療のできそうな医者はいなさそうであった。

 この病が風邪だったら、熱が出る前に寒気がするとか頭が痛いとか、なにかしらの兆候があったはずで、こんなに急に熱が出て倒れてしまうなど、なにか重篤な病に違いなかった。

 お結の息はあらく、さっきから、はあはあと吐く熱い息が信十郎の頬に触れて、彼女の苦しみが伝わってくるようだった。

 やがて、信十郎は意を決した。

 ここでぐずぐずと迷っていても、病状は悪化していくだけだ。やはり、ちゃんとした医者がいるであろう、長浜へもどるべきだ。

 決断すると、すぐに今来た道を、足ばやに戻りはじめた。


 長浜に入って、道行く人に、この辺りに医者はいないか尋ねたが、皆旅人か、近在の者たちで、この町の医者のことなど、誰も知りはしなかった。

 信十郎は、途方にくれた。

 そして、いっそのこと旅籠まで戻ろうと、思いをかためた。

 宿には、すでに藤次たちの手が回っている可能性もあったが、旅籠だったら、医者を呼んでもらえるに違いない。迷ってはいられない。

 そう考え、また歩きだした、その時――、

「ちょいと、旦那」

 後ろから、女に声をかけられた。

 ふりかえると、三十がらみの、後家とみえる女がひとり、信十郎に息がかかりそうなほど間近に立っていた。

 頭を島田くずしに結って、昔の春信の美人画のような細い身体に、雪輪柄の深草色の小袖、紺縞の帯を巻いて、黒い羽織を着ているところは、ちょっとした芸者かなにか商売女に見える婀娜あだな年増といった感じだが、ずいぶんめいっぱい若作りをしているような印象でもあった。

 彼女は、ちょっとつりあがった濃い眉の下の大きな目をぱちくりしながらじっと見つめてきて、

「おや、お嬢ちゃん、病気かい」

 ずいぶん、はすっぱな喋りかたをする女だった。女は、そっとお結の額に手をふれて、

「熱があるね。咳は。ない。熱だけ。いつから。昼ごろ。へえ」

 そんなことを早口に訊くのであった。

「すまんが、この辺に医者はいないか」

 と信十郎は訊いた。

 とたん、女は、ぷっと笑いだすのだった。

 信十郎は、憤慨した。こちらは、大切な娘が熱をだして息も絶え絶えだというのに、笑うとはなにごとか。

「みたところ、旅を続けているようだね。もうずいぶん長いんだろう。きっと、疲れがでたんだね」

 女はまったく気軽な調子で喋るのだった。

「子供は、さっきまで元気に走りまわっていたと思ったら、急に熱がでて倒れたりするからね。しらないと、びっくりもするだろうね」

 そう云って、にっこり微笑むのだった。

「旦那、いつも奥さんに娘の面倒を押しつけてばっかりじゃなかったのかい」

 云いながら、信十郎とお結の顔をみくらべて、なにか納得したようすで、ああ、とうなずくのだった。

「ま、心配することは、ないよ。こんなんで医者に診せたら、効きもしない熱さましを出されて、法外な金をふんだくられるだけだよ、いい鴨だよ」

「そんな、他人の子だと思って知ったふうなことを」

 信十郎が怒りをおさえきれずに怒鳴るのに、まったく取り合わずに、女は続けた。

「旅籠に泊って、ひと晩ゆっくりするんだね、明日の朝にはけろりとしてるよ」

 云って、女はくるりときびすをかえすのだった。

 信十郎は、また迷いのなかに落ちた。

 この女の云うとおりにすべきだろうか。この女の云うことが本当だとしても、念のため医者に連れて行ったほうがいいのではなかろうか。

 女は、数歩あるいて、またくるりと振り返った。

「旦那、ひょっとして、わけありかい」

 信十郎は、どう返答していいかわからず、黙って彼女をみつめただけだった。

 女は、苦笑するように顔をちょっとそむけ、すぐに信十郎を見返すと、

「いいよ、うちへおいでよ。旦那とその子のふたりくらい、泊れる部屋はあるからね」

 こっちこっち、などと友達を呼ぶように手招きして、家へ向かって歩きだすのだった。

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