第四章 湖上にて

四の一

 川井信十郎が、今津の宿で知り合った吉田という三十がらみの侍は、喋りつづけていないとどうにかなってしまうとでも云わんばかりに、絶え間なくずっと口を動かしつづけていた。

「いやはや、なんとも、妻に先立たれると、とにかく息子の面倒をみるのが難儀でしてな。子供は勝手に大きくなるといっても、本当に勝手にさせておいては教育上よろしくないわけでして。江戸にいては、仕事のあいだ面倒を見てくれるものもおりませんので。江戸もずいぶんきな臭くなってきましたし、まあそんなわけで、国元に帰れるように願い出たしだいでして」

 それから彼は、身振り手振りも大袈裟に、身体を右に左に動かしながら、あちこちにこころづけを沢山ばらまいただの、国元では両親だけでなく兄夫婦もいるから、なにかと気を使うだのと、信十郎にはまったく興味のない話を、えんえんと聞かせるのであった。

 吉田氏は小さな息子とともに、信十郎たちの隣の部屋に泊るのだったが、襖をちょと開けて、お話しでもしませんか、などとのぞいてきたものだから、はあかまいませんよ、などと気軽に応じてしまったのが、運の尽きだったのかもしれない。親子は、ほとんど日も暮れかけたころに宿に入ったのだが、かれこれ一刻半ものあいだ、父親ひとりで話しつづけている。

 この男、話の変わりめには、きまって、

「いやはや、なんとも」

 というのが口癖のようだった。

 信十郎は、文字通り閉口しながらも、旅につかれて陰鬱な気分になっていたところだったので、ときどきあいづちを打ちながら、気晴らしに彼の話を聞いているのだった。

「いやはや、なんとも」とまた吉田は云った。「長浜から丸子船というのに乗ってわたってきたんですが、狭い船内にぎゅうぎゅうに詰め込まれまして、しかも風が弱いとかなんとかで、二刻半もかかって、やっとここに到着しましてな」

 吉田氏は若狭小浜藩士で、長年江戸詰めで、妻帯したのも息子が生まれたのも江戸だということだった。国元まで彼といっしょに旅をしている三太郎という七歳の少年は、落ち着きのない父親に似ず、だまって座布団にすわって、大人どうしの会話を律義に聞いているようだった。

 お結とは、男女の違いがあるせいか、うちとけられないようす。

「いやはや、なんとも、江戸はそれはもう、物騒でしてな。同じ藩の侍どうしでも、よるとさわると、佐幕だの、尊王だのと、ちょっとしたことで云い争いになって、あげくには刀を抜くようなしまつでして。まったく、いやな世の中になったもんです」

 信十郎は、いい加減彼の話にもあきてきて、話を打ち切るなにかいい方法はないものかと、思案をはじめたころ、左腕に、重みを感じたのだった。

 なんだろうとみると、お結が腕に頭をのせて、うつうつらと、寝息をたてていた。しめた、と内心でほくそえんだ。

「もうしばらくお話をうかがいたいところですが、娘がこれですので」

 と信十郎が云うと、吉田は声をひそめて、

「いやはや、なんとも。我々ももう寝るとしましょう」

 と息子ともども自分たちの部屋に帰っていった。

 信十郎は、襖のむこうに聞こえないように、ちいさく吐息をひとつついて、長話のあいだに、女中が敷きのべてくれた布団にお結を寝かせ、自分の布団のうえに端座すると、今後の計画を練りはじめた。

 これまでは、とにかく近江を早く抜けることを一番に考えて、西近江路を北上してきたわけだが、これから進もうとする道のりは、おそらく新選組の追っ手たちにもう読まれているだろう、と考えていた。

 読まれているだけでなく、ひょっとすると、すでに手配されていて、関所でとがめられる可能性もあった。信十郎ひとりだけなら、なんとでもごまかしがきくのだが、お結もいっしょとなると、そうもいかなくなる。

 ちなみに、通行手形は、脱走をもちかけてきた土井が用意してくれていた。どうやって入手したかは信十郎は訊かなかったし、偽造手形なのかもしれなかったが、ともかく、まっとうな手段で手に入れたものではないだろう。

 そして、仙念の藤次たち探索方には、隠れてみたところですぐに居所を察知されてしまうというあきらめが心のどこかにあったが、やはり、彼らの尾行を撒けるのなら撒いておきたかった。

 そうなると、にわかに現実味をおびてきた逃走経路は、いちど計画案から除外していた、船を使って湖東に渡る、という構想だった。

 ――しかし、追っ手に勘づかれずに、湖を渡れるものだろうか。

 信十郎がいちどあきらめたように、船での移動は足がつきやすい。追っ手もそう考えて、逃走手段に船を使う可能性が低い、と考えてくれているなら儲けものだったが、はたして、そんな手落ちを彼らがするだろうか。

 信十郎の脳裏に、藤次の、こずるそうな顔が思い浮かんだ。奴はおそらく網の目のように諜報網を張りめぐらしているのに違いない。

 そこに考えがいきつくと、どうしても船の利用には踏み切れないものがあった。

 静寂をやぶるように、隣の部屋から、いびきが聞こえてきた。

 ――まったく、眠っていても騒々しい御仁だ。

 信十郎は苦笑しつつ、身体を横たえた。

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