四の二

 翌朝、吉田親子は朝食をすませると、あわただしく旅支度を整え、小浜へ向けて旅立とうとしていた。

「九里半街道というところは、途中熊川というところしか宿場がありませんでな。ここから五里ほどもありますので、子供の脚ですと、早く出立しませんと、日が暮れてしまうわけでして。いやはや、なんとも」

「父上、お喋りは昨日散々しましたでしょう。早く出立しましょう」

 息子の三太郎が云うのへ、頭をかきながら吉田氏は信十郎に頭をさげ、三太郎はお世話になりましたと律義に挨拶をして、親子は旅籠をあとにしたのだった。

 信十郎たちは、彼らをそとまで見送りはしなかったのだが、二階の部屋の障子を細く開けて、街道を遠ざかっていくふたりの後ろ姿をながめていた。

 この宿は、東が琵琶湖に面していて、西の窓からは街道がよく見えた。親子のように旅立っていくものや、品物を荷車に乗せて運ぶ人足、天秤棒をかついで走る棒手振りなどが、まだ陽が昇ったばかりの冴えた空気のなかを忙しそうに行ったり来たりしている。

 父親がなにか息子へ云うのへ、息子のほうがぴしりとした感じで云いかえし、父親は笠をゆらして笑声を放ちながら、喧騒のなかを歩いていくのであった。

 ――あれでは、どちらが親か子か、わからんな。

 ほほ笑んで、家並の陰へ消えいていく親子をみていると、その後を、ひとりの町人が、なにかふたりをつけるように、歩いていくのが見えた。

 多くの旅人や土地のものたちが行きかうなかで、その男は少し異様にみえた。男は、親子が曲がった九里半街道につづく角までくると立ちどまり、歩いてきたほうをふりかえると、誰かに合図を送るように、こくりとうなずくのだった。

 その合図のさきを信十郎が見やると、数人の町人ふうの男たちが額をつきあわせるようにして話をしていた。

 信十郎は、少し窓から身体を引っ込めた。細く開けた障子の陰で、向こうからは見えていないはずだが、なぜか、反射的に隠れてしまったのだった。

 ――新選組の追っ手かもしれない。

 さっきの、吉田親子のあとをつけていた男は、そうすると藤次の手下ということになる。

 親子はふたりとも笠をかぶっていたし、ひょっとすると、彼らを信十郎とお結に見間違えたのだろうか。

 追っ手らしき数人の男たちは、しばらくすると、話がまとまったようで、四方へ散っていった。

 吉田親子をつけていた男はもう見当たらなかったが、ふたりについて行ったのに違いない。

 ――これは、好機かもしれない。

 と信十郎は思った。

 吉田親子を勝手に囮に使ってしまうような、うしろめたさがあったが、藤次たち探索方が間違いに気づくのは時間の問題だろう。

 その前に、船を使って琵琶湖を渡れば、彼らの目をくらますことができるかもしれない。

「お結」信十郎は、後ろで暇そうに座っているお結に突然云った。「すぐに支度をしなさい。ここを出よう」

 ばたばたと支度をして、いざ出発しよう、という段になって、とつぜんお結が厠に行きたいと云いだした。

 信十郎は、彼女を厠に連れていったのだが、入ったまま、なかなかでてこない。長時間、船に乗ると教えておいたので、ひょっとすると、不安になっているのかもしれなかった。

 やっと出てきたお結の腕をひいて帳場へむかい、握り飯を頼んでおいたはずだが、と女中にたずねると、

 「あらやだ、そうでしたかね、朝は忙しいもので、すみませんね、今すぐつくりますね」

 などとまったく、悪びれるふうもなく調理場へむかっていった。

 これはどうも、一本船が遅れそうだ、と信十郎はやきもきしながら待つしかなかった。

 そうして握り飯ができてくるのを待っているあいだ、台所脇の小部屋でお結は出された茶を飲みながら、丁稚の少年が手代たちに叱責されているのを、悲しそうにながめていた。

 まったくお前はのろまだな。そんなとこに突っ立っているんじゃない。庭の掃除が終わったら、厠の掃除だ、何度云えばわかるんだ。少年は、勝手口で皆からかわるがわるそう怒られていたのだが、云われるたびに、はいはい、と落ち込む気色もみせず元気よく返事をするのだった。

 お結は、おそらく少年に、かつての自分の姿を重ねて同情しているに違いない。が、信十郎は、彼女にかける言葉がみつからなかった。言葉がみつからないまま、

「そんなにお茶ばかり飲んで、船でおしっこがしたくなっても、しらないぞ」

 とたしなめた。

 だが、お結は、少年に夢中で、信十郎の言葉を聞いているのかいないのか、またお茶をひとくちすするのだった。


 宿からは裏口を抜け出すようにでて、湊ぞいの道を、周囲に目をくばりながら慎重に船着き場までむかった。ほんの一町ばかりの距離を歩くのに、信十郎はたいそう気づかれしたのだった。

 やっとのことで繋留されている丸子船に乗ると、舵の調子が悪いのなんのと出発がさらに四半刻も遅れるしまつで――。

 信十郎は、船端に座って、人生とはかくも意のままにならざるものか、と嘆息するしかなかった。いつ、藤次たちが現れて、乗客をあらためられるか、気が気ではなかった。

 客は、信十郎とお結のほかに五、六人いて、長浜までちょっと用足しにいくようなようすの老夫婦や、旅姿の町人の男女が数人、行商人の男がひとり。とりたてて警戒しなくてはならないような――例えば藤次の手下のような者はいなかった。

 船頭はまだ、とものほうで舵をかたかたと動かして調子を確かめているし、いつになったら出発するのか、気がせいてしまい、ふと我にかえると貧乏ゆすりなぞをしている自分に気がつくのだった。

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