四の五

「だから、お茶をあんなに飲んじゃいけないと、注意しただろ」

 信十郎はたしなめたが、お結はもうそれどころじゃなく、身体をこきざみに震えさせている。

 これはいけない、と信十郎は、

「おい、船頭」

「へえ」

「娘が厠に行きたいと云っているのだが」

「へえ」

 船頭は、なにか奇妙なことを聞いたとでもいうように、陽に焼けた真っ黒な顔を向けて、いぶかしそうに信十郎をみつめた。

「厠なら、周りにいくらでもありますがな」

 と広大な琵琶湖を見わたすようにして云う。

 信十郎は歯噛みする思いだった。

「いや、そうではなくてだな」

「おっきいのでも、ちいさいのでも、このかさ木につかまってすればいいだでよ」

 と、船尾に立っている、鳥居のような四角い枠を叩いて云うのだった。

 ――しかたがない。

 信十郎は覚悟を決めた。

「お結、こっちにきなさい」

 と帆をくぐるように頭をさげて、お結をひっぱってともまで歩いた。

 ――さて、どうするか。

 信十郎の身体を壁にして他の乗客から隠して、用を足させればいいだろうか。

「お嬢ちゃん。おらあ何も見やしないから、ゆっくりすればええ」

 船頭は、こちらの焦燥をよそに、にこやかにお結に声をかけている。気づかっているつもりなのだろうが、こちらとしては、いらだたしいだけであった。

「お結、おじちゃんが隠してやるからな、その柱につかまっておしっこをするんだ」

 お結は信十郎に云われたままに柱につかまって、お尻を船のそとに出そうとしたが、途中でやめて、首を左右にふった。

「どうした、怖いか」

「ううん」

「なら、なんだ」

 お結は考え込んだ。

 船頭が、お結の心を察したように、

「そりゃ無理ってもんだぜ、旦那。手で柱をつかんだら、着物をまくれねえだよ」

 信十郎は船頭を、きっ、とにらんだ。お前がこうしろと云っただろう。

「おらあ男だで、尻まるだしでできるだでね」

「じゃあ、どうしろというんだ」

 気色ばむ信十郎へ、

「旦那が、お嬢ちゃんを後ろからかかえてさせるしかねえな」

 信十郎はもう、頭をかかえたくなってきた。だが、迷っている暇はなさそうだ。お結の顔はもう青ざめて、がちがちにこわばってしまっている。我慢の限界を、なにかがこえそうな雰囲気だった。

「しかたがない、お結、俺がかかえてやるから」

 信十郎はお結をかがませ、着物のすそをめくらせると、彼女の背中から手をまわして、膝の裏をつかんでかかえて、船尾から水上へと差しだした。

 とたん、お結は勢いよく、用を足しはじめた。

 彼女のこわばっていた全身の力が抜けていくのが、身体をとおして感じられるのだった。


 ――なんということだ。

 平助は、鼻白む思いだった。

 追っ手に追われ、どのような形相で必死の逃走を続けているかと思えば、少女のしもの世話にあくせくしているとは、なんというバカバカしさだ。

 船に乗っている間じゅう、信十郎は、お結という少女に、寒くはないか、とか、ご飯はもっとよく噛んで食べなさい、とか、彼女が咽喉に飯をつまらせると背中をたたいてやったり、まるっきり、娘を溺愛する若い父親が必要以上の世話を焼いているような具合だった。

 「笠はかぶっていなさい。お前はすぐに笠をとってしまうね。いやなのかい。せっかくみちのおばちゃんが用意してくれたのに。人の恩を粗末にしてはいけないよ。さあ、笠をかぶりなさい、陽射しが目に悪いだろう」

 そう諭すように話す信十郎にお結は、うんうん、とうなずきながら素直に云うことをきいていたりした。

 そんなふたりのやりとりを、平助はずっと、苦虫をかみつぶしたような顔で見て、聞いていたのだった。

 なにかきっかけでもあれば、信十郎を斬ってやろうと心の片隅に思って乗船したのに、そんなふたりをみていると、なんだか意気込んでいた自分がばかばかしく思えてきさえする。

 平助は、もう苦笑するほかなく、少女をかかえて小便をさせている逃亡者の背中をながめやるのだった。

 やがて、用がすんだとみえて、少女はすっきりとした顔で席にもどり、信十郎は汗をぬぐいながら、へとへとに疲れきったようすでもどってきた。

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