四の四

 信十郎は、突然乗りこんできた侍が、目の前に座ると、顔をそむけた。

 もう出帆という瞬間で、安堵していたこともあり、それはそうとうな衝撃となって、信十郎をつらぬき、落胆させた。

 ――なんということだ。

 自らの計画の甘さを悔やまずにはいられなかった。

 平助は、べつだんなにを云うでもなく、平然とした調子で、すわってこちらをみている。

 信十郎もだまって、しかし、内心では冷や汗をかくような思いで、ゆっくりと顔をむけ、みつめかえした。気圧されまいとして、ぐっと胸をはる。

 ふと、平助が何かに気づいたようにたちあがると、刀に手をかけた。

 信十郎の全身に、緊張が走った。

 だが、平助は、腰の大刀を鞘ごと抜くと、右手に持ちかえて、またすわるのだった。

 ――この男、俺をからかっているんじゃないのか。

 そう思って彼の顔をみると、心なしか、笑いを噛み殺しているように、口のはしがぴくぴくと小刻みにふるえているようにみえるのだった。

「ご浪人」ふいに平助が、口をひらいた。「長浜へ行かれるのですか」

「はあ」

「そうですか、いい所らしいですね」

「はあ」

 信十郎は確信した。

 ――やはり、からかって楽しんでいる。

 信十郎の焦心をよそに、お結はきょとんとした顔で、ふたりの顔をみくらべている。

 船が、ゆっくりと動きはじめた。

 湖流はおだやかで、不安に満ちた信十郎をあざわらっているようだった。


 丸子船は進む。

 波は静かだし、順風で速度も速く、この分なら思っていたよりもはやく長浜に到着するかもしれなかった。

 乗客たちは各々見える景色を楽しみ、弁当をつかいながら連れの者たちと感想などを云いあったりしていたが、信十郎と平助の間には、異様な静けさがただよい、ある種の緊張感が信十郎の心と身体を圧迫しつづけていた。船の幅は狭く、脚をへんに動かしたら向かいの平助の脚を蹴とばしそうだし、動くに動けないという物理的な圧迫感も、緊張を増幅させているようだった。

 当然、景色を楽しむ余裕などはない。

 ほかの乗客が、今津がもうあんなに遠くなった、とか、あれは海津大崎だね、とか、楽しそうに会話する声が聞こえてきたが、信十郎にとってはただの雑音でしかなかった。信十郎からは、それらの風景は背中側にあって身体を動かさなくてはいけないため、正面に意識を集中しなくてはいけない状況では、いちいち見ているわけにはいかないのだった。

 だが、お結は会話が聞こえるたびに、釣られるように首をひねり腰をひねりしながら、景色をながめていた。

 宿で作ってもらった握り飯を食べたり、寒そうにしているお結の身体をさすってやったりしながら、一刻ほどもたったころだろうか、

「竹生島が、大きく見えるね」

 と商家の隠居らしい老人が、妻らしき老婆へ声をかけていた。夫人は、帰りによりましょうか、などと返していた。

 お結は、竹生島、と耳にした瞬間身体をまわして、その小さな島を食い入るようにみつめていた。湖面から山の頂だけが突き出ているような緑におおわれたその島を、信十郎も、お結に合わせるように首だけまわしてちらっと横目でみた。

 やはり、お結は竹生島になにか思い入れがあるようだ、と信十郎はさっしたが、声をかけるほどの心のおだやかさは失われていたのだった。

 「これ、そんなに乗り出すと、船から落ちてしまうぞ」

 云って、お結の帯を引っ張った。

 彼女は、身体をまわして、もとのように、信十郎の横にすわりなおす。

 そんなやりとりを、平助は、黙ってみているだけだった。黙っている、というのが、信十郎にとっては不快であった。なにか声をかけてくれたほうが気が楽だった。なんだったら、非難されても、罵倒されても、無言であるよりはよっぽど良いと思えるほどの息苦しさだった。

 そうしてしばらくすると、お結がもぞもぞと身体を動かしているのに気がついた。

 横をみると、彼女の顔は、なにかをがまんしているようにこわばって、さらに、嫌なものを意識的に心のすみにおいやろうとでもするように、じっとまえを凝視している。

 ひょっとして、と信十郎は思った。

「おしっこしたいのかい」

 と訊くと、お結は、うんとうなずいた。

 信十郎は下唇を噛んだ。

 平助は笑いを噛み殺していた。

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