五の十三
信十郎は、刀をしまうと、季恵の家へと走って引き返した。
門から玄関をのぞくと同時に、季恵が家の中から持ち出してきた袴を信十郎に投げつけた。驚きながら受けとって、さらに投げつけられた草鞋を器用に空中で受けとった。
最後にふろしきにひとまとめにされた旅道具と脇差を、これは手渡しされたのだった。
旅の準備を信十郎がととのえるのをみとどけると、季恵は、
「じゃあ、あたしは、博徒連中がのびてるあいだに、ずらかるとするよ」
裏切ったことをあやまりもせずに云うのだった。
「そうか」
と信十郎は答えた。
不思議と季恵を責める気には、なれなかった。彼女の人柄のせいだろうか、人徳のせいだろうか。ほんの数日のあいだ、一緒にすごしただけだが、それでも情というものはうつってしまうものなのかもしれない。
そして、信十郎はお結を引き寄せた。季恵が着せてくれたのだろう、その姿はいつのまにか旅装に整えられていた。
季恵が、手を振ってから歩きだそうとするのへ、信十郎が、
「京はやめておいたほうがいい。この先どうなるかわからない。彦根か大津か、反対に名古屋あたりに行って店をひらくといい」
「そうだね」季恵は立ちどまって、顎に指をあてて、ちょっと思案するのだった。「とりあえず、手形がいるし、知人を頼って、大津まではいくけど。そうだね、京はやっぱり物騒かねえ」
そして、清々しく微笑んで云った。
「考えておくよ」
季恵は手をあげてまるで、また明日、とでもいうくらいの軽い感じで立ち去っていった。
信十郎は彼女の後ろ姿が、――実際は丁字路だったようだ――行き止まりだと思っていた道の、家並の向こうに消えるまで見送った。
そして、
「さあ、俺たちも行こう」
お結をうながして、北へ向かって歩きはじめた。
いつのまにか、空はすっかり明るくなって、地面に照りかえす光がまぶしいくらいだった。
しばらくして、物陰から、ふらりと仙念の藤次があらわれて、戦いの後を検分するように、うろうろと歩き回りだした。崩れた軒を見たり、倒れている轟を見たりしたあと、季恵の家に入っていった。
騒動がおさまったとみて、付近の住人達も、それぞれの戸口から、顔だけだして、様子をうかがいはじめていた。
さらに少しして、路地をまがって藤堂平助があらわれて、彼はまっすぐに、仰向けに倒れている轟のところへ行った。
その横に立ってちょっとの間みつめてから、片膝をついてしゃがんで、轟の、口の端から血が流れ出ている顔をじっとみつめた。血は頬をつたい、顎から首へと筋を描き、地面に流れ落ちていた。
ふと、二度ほど咳をして、轟が息をふきかえした。
ゆっくりと、その両目がひらかれた。
「なんだよ」轟はさも残念だというように云った。「なんで目を覚まして最初にみたのがあんたなんだよ」
「最期にみるのも、俺の顔になるがな」
轟は喉の奥で笑った。
「笑わせるなよ。傷がいてえじゃねえか」
平助は軽口にはつきあわず、しばらく彼の目をみつめ、そして云った。
「念願の秘剣はやかぜは、みることができたか」
また轟は喉で笑った。
「あんなものは、詐術みてえなもんだ。いんちきだ」
「どんなだった」
「教えねえよ、俺を殺そうと狙ってた奴になんか教えねえよ」
「そうか」
「ああ」
そうして、轟は、半分目をあけて遥か上空の、空の奥深くを見つめるように目をほそめた。
はたして彼の目に空の色は写っているのだろうか、と平助は思った。もう瞳孔はひらいたようになって、瞳の色も薄っすらと抜けたようになっていた。
やがて、
「ひさ……」
轟はつぶやいた。そして、目が半開きのまま、首ががくりと横にむいた。
平助には、ひさというのが、女の名前なのか、ただの意味のない言葉なのか、まったくわからなかった。何かを云おうとして途切れたようにも、舌がもつれてしまったようにも聞こえた。
ただ、この奸悪な男にも、人生はあったのだ、と思ったのだった。
そして立ちあがると、信十郎とお結が歩いていった道のさきを見つめた。その目は、もの悲しくゆらいでいた。
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