湖水のかなた

優木悠

第一章 追うもの、逃げるもの

一の一

 川井信十郎は走った。

 追っ手との距離は遠のいたのか、縮まったのか、考えるゆとりなどない。

 ただ一心不乱に走りつづける。

 聴こえるのは口からもれる喘ぎ声。高鳴る心臓の鼓動。大地を蹴る足音。景色はただ絵の具を流したように前から後ろへと流れていく。

 信十郎は立ちどまった。

 そこは、琵琶湖のほとりの、すこし湖に突きだしたようになっている高台の端で、下をのぞき見れば、岩がむき出しの切り立ったがけになっていて、三、四丈(十メートル)したで水面みなもが波打っている。

 振り返った信十郎の視界に、藤堂平助がいた。

 五間(九メートル)ほどむこう。

 足をとめ、息をととのえながら、じっとこちらを見すえている。

 やがて、平助の足が動いた。

 一歩、また一歩、雑草をふみしめて、平助が信十郎に近づく。

 早咲きのすみれを、無惨に踏んでくしゃりと茎が折れた。

「川井さん、あきらめろ。潔く腹を切れ」

 平助は、まだ荒い気息で、とぎれとぎれに、叫ぶ。

 信十郎は答えなかった。

 答える言葉がなかった。

 ただ、肩を上下させながら、ゆっくりと、刀の柄に手を置いた。

「よせ。俺は、あんたを斬りたくはない」

 平助のその言いように、信十郎は苦笑した。

「藤堂さん、それじゃまるで、俺が負けるみたいじゃないか」

 斬り合いたくないのは、お互いおなじだった。

 新選組の八番隊で、平助が隊長、信十郎が補佐のような立場でいろいろと任務をこなしてきた。

 信十郎は、この素直で生真面目な、二歳年下の隊長を助けることに心地よさすら感じていた。

 平助も同様だった。年長の部下を、兄のように慕い、頼りにしていた。

 お互いの距離は、すでに二間(三・六メートル)ほどにまで縮まっていた。

 信十郎は、剣を抜いた。平助も抜く。

 前かがみで肩をすこし落とした、不格好な正眼に構える信十郎に対し、しかし、平助はだらりと腕をさげたまま、まったく構えるようすがない。

 風が強くなってきた。

 空には重く雲がたちこめていて、その雲はいかにも分厚く、いまにもひと雨降りだしそうな、怪しい、暗い灰色をしていた。

 波の音が耳ざわりだと信十郎は思った。

 集中が、波が岸壁に当たるたびにそがれていくような、不快な気分だった。

 信十郎が息をととのえる。

 平助が、また間を縮める。

 信十郎は背筋をのばし、意識を目の前に集めていく。切っ先を左右にゆさぶる。平助の目が、それにつられて小刻みにゆれた。

 刹那、信十郎は刀を振りかぶった。

 同時に平助の腕が動く。

 信十郎の頭上の刀が振りおろされるよりはやく、平助の刀の切っ先が、下からのびてきた。

 背筋が寒くなるような冷たい感触が信十郎の胸にはしる。

 着物が裂け、胸から血が流れでた。

 信十郎は、斬られた傷を押さえることもせず、後ろによろめいた。

 一歩、二歩と、ふらふらと力なくさがっていく。

 平助が、ととっと駆け寄ってきた。崖から転落しそうな信十郎の着物の衿をつかもうと手をのばす。

 だが、その手は虚空をつかんだだけであった。

 信十郎の身体は、平助の視界から瞬間に消え、数瞬後には水面にぶつかる音が、波音に混じって聞こえてきた。

 崖をのぞきこんで、行方をさがした。

 だが、信十郎の身体は、しばらくたっても浮かんでこない。

 ぽつり、ぽつりと、雨つぶが、うつむいた彼の後頭部にあたった。

 それでも彼の目は、湖面を見つめ続けている。

 雨つぶは、じょじょにそのひとつひとつの大きさが増していき、あっというまに本降りになった。

 湖面はたたきつける雨の、跳ねる飛沫と重なる波紋のせいでぐちゃぐちゃになって、波さえ見分けられないほどかき乱されてしまった。

 しとめた、という感触はなかった。深手はおわせたが、ちゃんと手当てをすれば、命を落とすことはないだろう。

 ――あがってくるな、あがってくるな。

 平助は願った。

 生きていようと死んでいようとかまわない、このままどこかへ流されて、いっしょう俺の前に姿をみせるな――。

 雨に打たれて、頭髪も着物も濡れきって、身体が冷えてきっても、平助はずっと崖下を見つめていた。

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