一の二

 今朝、任務を云いわたされて川井を討つまで、ほんの二、三刻しかたっていなかった。それほどの短い時間で、藤堂平助はいままでの日常が、まったく一変してしまったような気がして、むなしさとも、とまどいともつかない複雑な心境に、彼はおちいっていたのだった。


 慶応二年(一八六六年)という年のはじまりは、新選組にとっては、比較的穏やかな日々であった。

 隊士のあいだには、日常の業務を行うのにも、どことなく気が抜けたような雰囲気が蔓延していた。

 その日の朝は抜けるような快晴で、平助も、他の隊士同様怠惰な気分に流されて、道場で汗を流したあとに、屯所の縁側にすわって、日に日に暖かくなってくる陽ざしに、まぶしげに目を細めていた。

 そこへ、副長土方歳三から呼び出しがきた。

 なにごとだろうと、長い廊下を執務部屋へと足を運ぶ。

 壬生から西本願寺へと屯所を移してから、ずいぶん月日が流れたが、いまだにこのむやみにに広い建物には、慣れない。

 土方は、壁ぎわの文机にむかって何か書き物をしていたが、平助が顔をだすと、ようといつもどおり気さくに挨拶をして、手をふって座るように指図した。

 土方は、身体を半分こちらにむけて、片ひじは机のうえにおいたまま、何気ない調子で、話しはじめた。

「けさ、お前の隊の川井が出奔した」

 平助は、小首をかしげた。意味が飲み込めなかった。

 彼の率いる八番隊の川井といえば、あの川井信十郎しか思い当たらない。

 ――あの男にかぎって、脱走など……。

「川井だけじゃなくってな、同時に、ああ……」と土方は嘆息するように云って、机の上の覚え書きを手に取った。「三番隊の土井、中田、五番隊の広崎、そして、八番隊の川井の四名だな。新年早々、雁首そろえて面倒ごとを起こしゃあがって」

 云ったすぐあと、昔の自分さながらの伝法な口調を恥じたように、ひとつ咳ばらいをした。

「川井は、まじめな男ですよ」と平助はまだ信じられないというようすで、「なにかの間違いじゃないんですか」

 ちょっと気色ばんだ平助の問いかけに、土方はただ軽く首をふって答えただけだった。

「ここ最近、なにか不審なことはなかったか」

「いえ、とくには」と平助は記憶をたぐった。「そういえば、母親が病気だとかで、見舞いに帰りたいとか云っていましたが、それくらいですね」

「ああ、事務方にも届が出ていたが、許可がおりなかった」

「なぜです。それがもとで脱走におよんだとは考えにくいですけど」

「うん、川井は福井脱藩だったな。脱藩者が国元へ帰りたい。ちょっと変じゃないかな」

「考えすぎじゃないでしょうかね」

「間者(スパイ)かもしれん」

「まさか。だって、福井は徳川の親藩でしょう。新選組に、間者をいちいち送りこみますかね」

「それはわからんぞ。春嶽しゅんがく公(松平慶永)は、薩摩と親密にしているという話もあるしな。油断はできんよ」

「はあ」

「そこでだ」と土方は前置き話を終わらせるように、声を張って云った。「平助、討伐隊を組織した。お前には、彼らをひきいてもらいたい」

 土方はおくにむかって、おいと声をかけた。

 すっと、襖が二枚、同時に開く。

 そこの座敷には、隊士が数人、横ならびに座っていた。


 とどろき弥兵衛やへえ

 御堂みどう銀四郎ぎんしろう

 坂井さかい五郎左衛門ごろうざえもん

 正木まさきそま

 桐野きりの咲之介さきのすけ


 いずれも、ひとくせもふたくせもある連中だった。

 なぜ、よりにもよって、こんな無頼の輩ばかりを集めたのか、と平助は不思議に思った。

 轟は二刀流を使う。片腕であやつるにもかかわらず、すさまじい剣圧をもった、重みのある剣をふるう。その腕一本の膂力は、他人の両腕の力にまさるともおとらない、剛腕の剣士だった。

 御堂、坂井、正木は、常に三人で組んで戦う。その連携攻撃によって、何人もの尊攘派浪士を葬ってきた。

 桐野は、まるで、女かと思えるほどの美貌を持つ男だった。だが、その剣技は凄絶で斟酌がなく、道場で手合わせをした隊士数人の骨を折ったこともあった。

 ――こんな、あく・・の強い連中の面倒をみきれるものか。

 平助は、心中で悲嘆した。

 討伐隊、と土方が名づけたのも気に入らない。捕り手とか追っ手とかではなく、討伐隊である。あまりに大仰な云いまわしだった。

「みな、すぐに立ってもらう。半刻後に門に集合しろ」

 云って土方は討伐隊の面々をさがらせて、平助に顔をむけた。

「脱走した連中は、京から、大津へむかったことまでは、探索方が調べている。馬を使ってもいい、追って、斬れ」

「捕まえて、切腹ではないのですか」

「脱走したやつらは、いずれも腕が立つ。斬る気でかかれ、という意味さ」

 土方は、すこし思案顔をして、つづけて云った。

「討伐隊も、同時に……、な」

 ははあ、と平助はここで合点がいった。

 討伐隊の者たちは、新選組でももてあまし気味の者たちだった。酔って誰かれかまわずに乱暴を働くのこともあったし、敵とは云え斬らなくてもいいような者を斬ったり、必要以上に残忍な殺し方をしたり――。ひとをさいなむのが楽しくてしかたがない、人を斬りたいがために新選組にいる、そんな連中だった。しかも、用心深いのか、表立ってはわずかな過誤もみせないし、手柄もそれなりにたてているので、始末をつけられない。

 これを機会に、新選組の汚物を清掃しておきたい。

 今回の追捕で、斬り合って命を落とせばそれでよし。落とさなかったとしても、こじつけでもいいから瑕疵かしをみつけて切腹に追い込む。

 土方の思惑とは、そんなところだろう。

 平助は、では、とうなずいて、腰を浮かし、あ、と思いついたことを口にした。

「うちの隊の、小畑おばたも連れて行ってかまいませんか。ひとりくらいは、忠実な人間がほしい」

「かまわんよ」

 土方はもう興味をなくしたように、机にむかって、また筆を動かしはじめていた。

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