三の六

 北へむかって、農家でおそわったとおりの道を進むと、意外なほどはやく街道に出ることができた。

 その街道は、琵琶湖にそって松がずっと並んではえていて、それらをすかして観望する湖のさきには、海津大崎かいづおおさきとそのむこうに葛籠尾崎つづらおざきが見えた。これらふたつのみさきが見えるということは、琵琶湖の北岸にずいぶん近づいたということでもあった。

 湖東の、霞がかってぼんやりとにじんだようにみえる伊吹山に、重なるようにふたつのみさきが並んでいて、葛籠尾崎の先端には、小さな山のような島が、ぽっこりと、湖水にひとつ浮かんでいるのだった。

 信十郎とお結のふたりは少し道をはずれて、松の木のつけ根に立って、その小さな島をながめていた。

「ごらん、お結。あれが竹生島ちくぶしまだよ」

「竹生島……」

 おうむ返しの言葉だったが、この娘にはめずらしく、ちょっと感情をのせた云いかたをした。

 そして彼女はどこかうれしそうに、まるい目を凝らすようにして、島を見ていた。

「あそこには、弁財天という神様が住んでいる。いや仏様だったかな」と実はもうすでにお結が知っている知識を、ひけらかすようにして信十郎は話した。「ここからじゃ、ご利益は薄いかもしれないが、なにかお願いするといい」

 うながされてお結は、小さな手をあわせて両目をぎゅっとつぶった。

 しばらくして信十郎が、

「なにをお願いしたんだい」

 と訊くと、

「うふふ」

 とまたお結にしては珍しく、声をだして笑った。それは、ほんのりと、咽喉からもれたような小さな笑い声だったが、信十郎の心に温もりをあたえてくれるような、どこか安らぐような響きをしていた。

「ないしょ」

「なんだ、いじわるだな」信十郎も、うふふと笑った。「まあそうだね、お願い事は他人に話すとかなわなくなる、という人もいるしね」

 ふと後ろをみると、十間ほど遅れて清彦がついてきていて、彼も立ちどまって竹生島をみているようだった。

 ――あの男は何を思って、あの島をみているのだろう。

 清彦がふたりのあとをついてくるのを、信十郎はなかばゆるす気になっていた。この数日、彼はお結に手をふれようともしなかったし、それどころか、近づくことさえもしなかった。昨晩に、自分の心情を語った、その話しかたも不自然ではなかったし、彼がいうように、本当に改心して、ふたりの旅の無事を見とどけるためについてきているように思われるのだった。

 農家をたつとき、お結は、清彦に対して嫌悪をあらわさなくなった信十郎をいぶかしむようだったが、

 ――もういいんだ、ついてくるだけなら、ゆるしてあげよう。

 信十郎は、説得するようにお結に云った。お結も、

 ――うん。

 と、信十郎がそういうのならかまわない、といった感じで納得したようすだった。

 ふたりは道にもどり歩き出した。もう一里も歩けば、今津という大きな宿場に到着する。

 草鞋を脱ぐにはまだ早い時刻だが、信十郎は、その町でゆっくりしようと考えていた。

 歩く道は、右側にならんだ松と、左側の雑木林から伸びた枝が街道に覆いかぶさり、隧道ずいどうのようになっていて、道自体も少し曲がっていて見通しが悪い場所だった。

 どこかから、馬が走ってくるような音が信十郎の耳に聞こえた気がした。

 その馬蹄の響きは、急速に信十郎たちに近づいてきて、あっと思ったときには、地響きとともに、すぐ後ろに馬頭が迫っていた。

 信十郎はお結をかばうようにして、道ばたへ飛ぶようにして馬をさけた。

 凄まじい速度でふたりすれすれに馬が駆け抜ける。

 その乱暴な走らせかたに、信十郎はむっとした。にらんだ信十郎の視線と、こちらを振り向いた鞍上の男の視線が交差した。

 男は、花模様の小袖に新選組の羽織を身につけ、女のような顔立ちをしていた。

 ――あれは、たしか桐野咲之介。

 桐野が手綱を引くと、馬は棹立ちになり、そのまま振り落とされるようにみえたが、あわてたようすもなく、さっと鞍から飛び上がり、ひらりと片膝をついて地面に降りたった。そして、ゆっくりと立ちあがりつつ顔を振り上げて、信十郎を見つめた。

 その紅をさした唇は、人を嘲弄するかのように曲がり、切れ長の目が得物を見つけた狼のようにこちらをにらみすえていた。

 桐野がするりと刀を抜き放つ。信十郎も抜いて、正眼に構える。

 あいだは三間。

「そこは危ない、おゆい、こっちへ」

 いつの間にか清彦が近づいていて、信十郎の脚にしがみつくようにして立っていたお結を抱きあげると、即座にさがっていった。

 ――いまは、あの男にまかせるしか、しかたがないか。

 思った信十郎であったが、すぐに、はて、と不審がきざした。

 後ろに遠ざかっていく足音が、いつまでたってもとまらないのである。ただ、その音が、どんどん小さくなって耳でとらえられないほど微弱になっていく。安全な場所に移動するだけなら、四、五間も離れれば充分なはずなのに。

 ――しまった、謀られたっ。

 とっさに、信十郎は振り返った。清彦がお結を抱えて、走り去っていくのが見え、すぐに曲がった道と木々にさえぎられて、姿が見えなくなってしまった。

「清彦っ」

 叫んだ信十郎の視界に、桐野がぬっとあらわれた。まるで、清彦を追おうとするのをはばむように。

 信十郎はそこで気がついた。

「お前たち、ぐるかっ」

 彼の焦燥をあざわらうかのように、桐野の口のはしが大きくゆがんだ。

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