二の三

 作業場からでると、煌々とした陽の光が、徹夜で疲れきった目に刺さるようだった。

 昨夜ひと晩歩いていたときは、ずいぶん冷えて手足の指がかじかんでしかたがなかったが、陽が高くなるにつれて気温もあがってきて、いまではもう、穏やかな温かさが身体を包んでくれているようだった。

 庭戸村の山の麓にある研師経国の家は、まるっきり土地持ちの百姓家といった造りで、全体で二百坪ほどの敷地があった。木組みの門を入った右に大きな茅葺き屋根の母屋があり、庭の奥には作業小屋があって、母屋の向かいには庭をはさんで八間(約十五メートル)ほどのところに小さな離れ家もあり、そのそばには鶏が数羽、放し飼いになっていた。

 信十郎は、ちょっと照れたような気持ちになっていた。

 さっき、思わず、おゆいのことを、娘と云ってしまった。

 彼が二十五で、彼女が八歳だから、年齢としては、いささか微妙な開きであったが。

 ひとり恥ずかしいような笑みを浮かべて庭を歩く信十郎の心臓が、どきりと大きく打ちつけた。

 おゆいの姿が見あたらない。

 血の気が引くような気分で、あたりを見まわしながら門のほうへとむかうと、母屋のなかで、おゆいが床をふいているのが見つかった。

「おゆい、なにをしている」

 彼女は、なにか奇妙な問いかけをされたとでもいうように、雑巾を動かす手をとめ、きょとんと信十郎を見あげた。

「そんなことをしては、この家の人に、かえって失礼だ。それにね、お前はもう、そんなことはしなくてもいいんだよ」

 おゆいには、長年の労苦が身にしみついてしまっているのだろうか、なにかに脅迫されてでもいるように、つねに働きつづけていないといけない身体になってしまっているようだった。

「おいてあったから」

 とおゆいは、ぽつりと云った。

「その雑巾と手桶がかい」

 少女はこくりとうなずく。

 ふと視線に気がついた。

 十畳ほどの居間のなかほどには囲炉裏が切ってあって、その向こう側の襖の陰で、三十がらみの女が立って、こちらをじっと見つめているのであった。

 おそらく、経国の妻であろう。

「これは、ご新造。この子が、よけいなことをして申し訳ない」

 信十郎は頭をさげたが、女は、無表情に、しかし、おゆいを食い入るようなまなざしで見つめ続けていた。客にたいして挨拶もしないし、言葉に返事をするわけでもない。

 洒落た印象の鴬色をした格子縞の着物も品よく着こなしていたし、丸髷の髪もきれいに整えられておくれ毛の一本もいないし、そんな身なりのよさとはあい反して、どこか魂が抜けたような虚ろな表情をしてこちらをみている。ちょっと妙な感じがする女だった。

「や、妻が失礼をしたかな」

 声に振り返ると、経国が作業場から歩いて出てきた。

 研師は、信十郎のよこで立ちどまり、妻とおゆいを見比べるようにして、何回か目を動かした。そして、ああ、と溜め息をついた。

「みち、お前は奥に行っていなさい」

 彼が妻に向っていうと、みちと呼ばれた女は、なにか心残りがあるような感じで、それでも言葉を口に出すこともなく、奥へ引っこんでいった。

「いや、失礼した」

 と経国は縁側に腰かけた。

「実は、去年、娘をなくしてね」遠い目をして、研師は話す。「うちだけじゃあないんだ。夏に、おこり(マラリア)が流行ってね、このあたりの、年寄りとか子供とか、身体の弱いものたちがばたばたと逝ってしまった」

 彼は、首をまわして、おゆいをみた。

「ちょうど、その子くらいの歳でね。それ以来、気鬱の病であんなふうさ」

 おゆいは、小さいながらに、なにか感じるものがあるのか、みちの去ったあとを、目を細めてじっとみつめていた。

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