第42話  襲撃者

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 時はほんのちょっぴりだけ遡る。


 大紋源二は、そっと部屋を抜け出した。階下から怪しげな物音が聞こえてきたような、そんな気がしたのだ。


 この状況下で、それが何を意味するのかは理解している。だからこそ、たしかめなければならない。危険は承知だ。


 ひんやりと、適度に冷やされた風が源二の体を包み込む。足を忍ばせ、階段へと向かう。


 胸の内側に、ねばっこい不安が張り付いて離れない。


 英生が殺されたと知った時のショックが、現実的な危機感となって体内に残留しているのだ。

 この館で、兄弟のように育てられた英生。この年になるまで、お互い目覚めることなく、平穏な人生を過ごしてきたのに。

 結局、どのような形であれ、大紋家の一員である以上は悪魔からは逃れられないということなのだ。ただ、彼に救いがあるとするなら、人を殺さずに一生を終えることができたということだろうか。


 手を汚したまま地獄に行くよりかは、きっと楽なはず。


 とうに雨は止んでいる。


 耳をそばだててみるも、先ほど耳にした音は全く聞こえず、痛いほどの静寂が館内に満ちていた。


 何かがぶつかるような音だった。


 嫌な予感がする。


 それにしても、他の者はまだ戻らないのだろうか。


 先ほどお茶を運んできた鳥谷が美空の捜索のために皆が外へ行くというような話をしていたが、それにしても長すぎる。


 階段を中ほどまで降りたところで、源二ははっと足を止めた。

 廊下の真ん中で、女がうつぶせに倒れている。


「鳥谷!」


 彼は足早に駆け寄り、中年家政婦の重たい体を抱き起こす。彼女はこと切れていた。左胸の辺りが赤黒く染まっている。


「しっかりしろ」


 なんと無意味な鼓舞だろう。死者に対して、しっかりしろもなにもないではないか。頭の中でそうぼやく自分がいた。


 そうだ、冷静になれ。


 彼女はもう死んでいる。


 重要なのは、誰が殺したか、だ。


 今、本館には源二と鳥谷以外に人はいない。捜索隊の誰かが、こっそり本館に戻り、鳥谷を殺したに違いない。


 いったい誰が?


 その時だった。背中に異質な冷気を感じた。殺気だと気づく前にそれは強烈な痛みに変わり、彼はそのまま倒れ伏した。振り返る間もない早業。


「ぐっ……」


 抵抗しようと試みるも、力が全く入らない。背中の痛み、そして死の恐怖が彼の気力をそいだ。このままでは殺されてしまう。


(しかし……)


 ある意味では、源二はほっとしていた。


 死を恐れる気持ちは当然ある。しかしながら、彼の心の裏側には安堵の気持ちもあった。


 よかった。


 これで俺も、人を殺さずに一生を終えられるのだ。


 大紋家の宿命である殺人病を発症することなく、人を殺めることなく、悪魔としてではなく人間として生涯を終えられる。


 父、清は望まぬ殺人によってその人生をめちゃくちゃにされた。


 源二が物心つく前に首を吊って、己の罪を己の命で支払った。


 それが正解だったかと問われれば、安易に首を縦に振ることはできない。しかし、殺人衝動に悩まされた父は、死によってようやく苦しみから救済されたのだ。


 この家は、呪われている。源十郎という悪魔に。


 死こそが、目覚めた者の前に伸びる、唯一の救いの道なのだから。


「ぐはっ」


 そのまま何度も源二の背中に刃を突き立て、やがて満足したのか、そいつは源二の横を通り過ぎて玄関の方へと向かった。源二には目もくれず、まるで何事もなかったかのような足取りで。


 薄れゆく意識の中で源二が目にしたのは自分を刺した悪魔の後ろ姿ではなかった。


 遠い過去の情景。


 幼い頃、よく一緒に遊んだあの少女の笑顔だった。幼心に芽生えたあれは、きっと恋だったのだろう。


 同じ悪魔の血を受け継ぐ、あの少女。


 彼女は今、どこで何をしているのだろう。生きているのかさえ判らない。源十郎の死後、あらゆる手を尽くして彼女を捜したが、結局見つからなかった。


 願わくば、彼女が悪魔の運命から救済されていますように。


「……美幸みゆき




 *



 逃げるどころか、青夜のその声で体が固まる。


「え?」


 視界の隅――闇の中で何かが動いた。


 視線を向けるも、そこには闇が広がるばかり。しかし、たしかに誰かの気配を感じる。青夜は何を見たのか。再度懐中電灯を林に向けようとした瞬間、右腕に激痛が走った。


「うわぁ」


 一瞬遅かった。すでに襲撃者は僕のそばまで来ていた。


 あまりの痛みに両手の懐中電灯を落としてしまった。光は僕の手元を離れ、一方はその場で砕け、もう一方はころころと転がっていく。


 その時、僕は見た。ほんの一瞬だが、青夜のヘッドライトが襲撃者を捉え、その正体を暴いた。


 闇の中に映し出されたその顔。


 殺意を秘めた眼光。


 脳がその人物を認識した瞬間、頭が真っ白になる。


 意識の刹那の空白の中に浮かび上がったのは、なぜ、という疑問だけだった。それすらも右腕の痛みによってかき消される。正常な思考ができない。


 青夜の声が背後から聞こえる。何と言っているかは判らないが、とにかくこの場を離れなければ。


 懐中電灯を左手で拾い上げ、僕は走った。


 林の迷宮を、ただひたすら走った。どこへ向かっているのかは自分でも判らない。


 死の危機から逃れるように暗闇の中をもがく。


 途中で、この懐中電灯は僕の位置を相手に知らせるだけだと気づき、捨てた。


「はあ、はあ」


 心臓が爆発しそうだ。全力疾走なんて、高校の体育祭以来だ。


 今しがた僕を襲ったあの人が犯人だとしたら……


 たった今目にした光景とこれまでの事件とのを、僕は必死に取ろうとした。だが腕の痛みがひどくて思考が進まない。


 灯りがないため何度も足がもつれ、転びそうになる。


 息が切れ切れになり、足が思うように進まなくなってしまった。


 運動不足だろうか。


 そうだ、スポーツジムに通おう。


 希愛も一緒に誘って、近場のジムに入会しよう。


 おそろいのトレーニングウェアを買って、それで――


 気が付くと、僕は広場まで戻っていた。


 ゾンビのような足取りで、ふらふらと歩き、石碑にもたれかかる。疲労が全身に回り、もう動けない。肩で息をしながら、僕は後悔した。


 宇宙に輝く一番星のように、闇の彼方できらめくものがある。


 ああ、懐中電灯を捨てたのは悪手だった。


 やつは灯りを持っていなかったから、闇に紛れてしまえば向こうも僕を捜せないだろうと高をくくっていた。


 あいつは僕の捨てた懐中電灯を使い、逃げ惑う僕の位置を把握しながら追いかけてきたのだ。


「はぁ、はぁ」


 こつん、こつんと足音が響く。


 死神の足音だ。


 寒くもないのに体が震える。


 右腕の傷を押さえると生温かい血が心地よかった。


 死神が携える懐中電灯は依然として僕の顔を捉え続けている。


 逃げ切ることは不可能であるということを示すように。


 荒い息遣いを伴って、そいつは僕の真正面まで近づいた。


 もう逃げる気力も体力もない。


 だが、最後に一つだけ訊きたい。


「どうして、あなたが」


「大丈夫、怖くない」


 雲が晴れた。


 開けた広場に星明りが降り注ぐ。


 悲しいほどに美しい星空。


 これが最後に見る景色になるとは。


 できることなら、希愛に看取られたかった。


「昨晩、僕の部屋で侵入したのはあなたですか?」


 悪魔はゆっくりと頷いた。


「どうして……茜さんもお義父さんも葉月ちゃんも、あなたが殺したのですか?」


「殺したくはなかった。でもこの体の中に流れる悪魔の血が騒ぐから、仕方なかった」


「あなたが……?」


「本当はあなた一人を殺せればそれでよかったのだけれど、そう都合よくはいかないのが人生というもの。さっきだって、これを取りに行っただけなのに鳥谷さんと源二さんを刺し殺してしまった。殺すつもりなんてなかったのに、我慢できなくなって……」


 悪魔は僕の血で濡れた包丁を逆手に構えた。


「そんな」


 僕は絶句した。源二と鳥谷が……


「五人。大望。あなたのために、五人の人間が無駄に命を落としてしまった」


 もう僕の死は免れない。助けが来る気配もない。


 ふと覚える既視感。




 どうしてこんな時に、いや、もしかするとこれが走馬灯というやつなのか。




 遠い記憶が蘇る。




 一年ほど前から悪夢の中で何度も体験した、女が僕を見下ろしているあの光景。




 あれはたしかに僕の記憶だった。





 あまりに古すぎて忘れていたのだ。






 あれはそう、僕が赤ん坊の頃の記憶なのだ。






 女が巨大に見えたのは相対的に僕が小さかったからだ。






 あの女に対して奇妙な安らぎを感じていたのは、あの女が僕の本当の母親だったからだ。






 僕は母親に殺されかけたのだ。






 人生の最期でなんて悲惨なことを思い出してしまったのだろう。






 なぜ母が僕を殺そうとしたのかは判らないが、結局僕を殺すことができず、〈愛の家〉に僕を捨てたのだ。






 ほんのささいなことだが、もう一つ思い出したことがある。






 僕を刺した後、母は泣いていた。今、目の前にいる悪魔と同じように。






「ああ、泣かないで大望。大丈夫だから。一人じゃないから。ごめんね。ごめんね」






 どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。







 遅れて、ばさばさと羽ばたく音も聞こえてきた。








 死を前にして、感覚が鋭敏になっているようだ。









 どうでもいい雑音が耳に届く。










「怖くない、大丈夫。が一緒に死んであげるから」







 そして黒音は包丁を振り下ろした。



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