第28話 神の悪戯
1
「さて――」
青夜は勢いよく立ち上がり、ベッド横のクローゼットを開けた。その中から適当に見繕って僕の方へTシャツとズボン、そしてトランクスにタオルを投げて寄越した。
「こ、これは?」
「話に夢中ですっかり着替えるのを忘れてたよ。俺の服で悪いが、それに着替えたまえ。濡れた服を着たままだと風邪を引いちまうからな。別館まで戻るのも面倒だろう?」
言って青夜はさっさと脱ぎ始めた。
そういうことに頓着しないたちなのか、実に平然としている。なんだか意識するのもおかしいと思い、僕も渋々着替え始めた。
湿ったTシャツを脱いで水気をタオルで拭き取る。青夜は意外と筋肉質な体で、中肉中背の僕は少し肩身が狭い思いだった。どうやったらあんなに腹筋が割れるのだろう。
「前から気になっていたんだが」
半裸のまま青夜はこちらへ一歩近づき、僕の右腕に視線を落とした。例の傷痕が気になったようである。
「すごい傷だね」
青夜は舐めるように傷痕を見る。
「ええ、実は」と、例によってこの右腕の傷は物心つく前に負った傷であり、どのようにしてついたかは判らないことと、例の巨大な女の悪夢について説明した。
聞き終えて、青夜は難しそうに唸った。今の僕の話から、何かを感じ取ったようである。
「これは何かの暗示なのか……その悪夢と昨晩の君の事件は何だか似ているな。まるで予知夢のような……」
「そうなんです」
たしかに状況は似ている。
夢の中では巨大な女が、昨晩の事件では顔を隠した犯人が、それぞれ包丁を持って、寝そべった僕を見下ろしていた。
だから僕も、昨晩目の前に立つ犯人を目にした際、悪夢の中から女が抜け出してきたのだ、と思い込んでしまった。現実的に考えればそんなことはあり得ないはずなのに。
もっと子細に観察しようとしたのか、青夜はさらに歩み寄って傷痕に顔を近づけた。その時である。ドアが勢いよく開かれ、葉月が現れた。
「青兄、ちょっと――」
「おいおい、ノックぐらいしろよ」
青夜が戸口を一瞥して言った。しかし葉月は答えないまま、まるで亀の交尾でも見るかのような目をこちらに向けていた。
「どうした?」
「え? いやその」
「なんだよ」
葉月の様子はどこかおかしい。顔を両手で隠したかと思うと、指の隙間から僕たちをちらちら見たりする。そしてなぜか顔を赤らめている。
「お、お取込み中のところ失礼したわね」
といきなりそんなことを言った。
「はぁ?」
「だ、大丈夫よ。私はそっちの方にも理解があるから。でも、大望さんは希愛姉がいるんだし、そもそもこんな大変な状況でよくそんなことしようと思え――」
「何言ってんだ、お前」
二人のやり取りをぼんやり眺めていた僕は、ようやく彼女の反応の意味に気づいた。
なんということだろうか。
僕も青夜も上半身裸で、青夜は僕の腕の傷痕を見るためにこちらに近づいて、覗き込むような体勢を取っていた。
その瞬間を切り取って見てしまった葉月は、いかがわしい場面に遭遇したと勘違いしたのだ。
「違いますよ、ハルナちゃん。これは着替えの途中でして」
僕は必死に弁明する。この勘違いが大紋家内に流布し、希愛の耳に入ってはかなわない。
「隠さなくていいのよ、男の人は潜在的にその気があるんだから。おかしなことじゃないわ。昔は衆道という文化もあったくらいだし」
「違うんですよ。僕たちは着替えようとしただけで」
「それはそうよね、服を着たままじゃしわになってしまうわ」
「そういう意味じゃなくてただ濡れたからですよ」
「濡れるのはこれからでしょう?」
「どういう意味ですか。ですから――」
僕が葉月の誤解を解こうと苦労している横で、青夜は呆れたふうに鼻を鳴らし、妹の視線もおかまいなしに下を着替え始めた。
「きゃっ」
「青夜さんっ」
「アホにかまってないで大望くんも早く着替えたまえ。濡れたままじゃ気持ち悪いだろ」
「……事後、なの?」
話がどんどんおかしな方向へ傾いていく。
何だか頭が痛くなってきた。
事情を説明して(たいした事情でもないが)葉月を納得させるまで、なんと十分もかかってしまった。百聞は一見に如かずということわざがあるが、一度目で得た情報を言葉で修正することの大変さを僕は身をもって知った。
「で、何しに来たんだ?」
改まった調子で青夜は言った。着替えが済み、葉月の誤解も解けたことで場の空気はリセットされていた。
事情を説明し終えた後、葉月が少し残念そうな表情を見せたのはきっと気のせいだろう。
「そうそう、大変なのよ」
思い出したように葉月は言った。
「何かあったのか?」
そう訊く青夜の声には若干の強張りが感じ取れた。自然と僕も身構えた。もしや、新たな事件が起きて誰かが犠牲になってしまったのか?
希愛だったら……
状況が状況だけに嫌な想像が頭の中で勝手に膨らんでいく。
「さっき英生おじさんが帰ってきたんだけど……」
「もう戻ってきたのか。意外と早かったな。それで、警察も一緒か?」
ふるふると首を振り、葉月は悲しそうに声を細める。
「それが、途中で土砂崩れが起きていたみたいで、引き返してきたのよ」
「何だって?」
額に手を当て、嘆くように青夜はため息をついた。僕も心の中で重たいため息をつく。
現状を打破する唯一の希望は見事に打ち砕かれ、最悪の状況が遂に完成してしまったのである。
外部との連絡手段を封じられ、脱出することもできない。周囲は山ばかりで、逃げ場などどこにもないこの大紋邸の中に、僕たちは閉じ込められてしまった。しかも、人を一人殺した殺人鬼と共に。
めまいがしてきた。
状況がどんどん悪い方へ、悪い方へと転がっていく。
もし青夜の言うように殺人衝動に支配されている人間が犯人ならば、このまま放置するのは危険だ。さらなる事件が起きてしまう恐れがある。
今、僕の目の前には二人の大紋家の人間がいる。
青夜と葉月。
悪魔の血が目覚めたからといって、目に見えるような特徴が体に現れるわけでもないだろう。
人間の目に見えるのは外見だけで、他人の心までは見通せない。姿の見えない殺人鬼は彼らのどちらかかもしれない。
「電話も通じず、助けを呼びにも行けない、か。笑っちまうね。まるで神様がわざと俺たちを追い詰めているような具合じゃあないか」
やけになったのか、青夜は低い声で笑った。
「それで、お父様がお呼びよ」
「親父が?」
「ええ、緊急事態だもの。全員を集めて今後の対応を話し合うそうよ」
彼らの実父、大紋源二とはまだ顔を合わせていないのでどのような人物なのかは判らない。一つだけ判明している事実は、彼もまた源十郎の血を引いているということだけ。
「……話し合う、ね。話し合える余地があればいいんだけどな」
「ま、無理でしょうね。お父様だもの」
「あの、源二さんは、今回のことを隠し通すおつもりなのでしょうか」
兄妹を交互に見やって僕は訊いた。
断片的に話を聞いた限りでは、源二は警察の介入を好ましく思っていないようである。
たしかに、今回の事件が表沙汰になれば、大紋家の過去のスキャンダルも自然と掘り起こされる可能性が高い。
企業としての大紋グループには相当な打撃となるだろう。身内で処理できるのならば、それに越したことはないということか。
事実として十年前に太一が起こした事件はそうやってもみ消されているし、その隠蔽体質は源十郎の時代まで遡ることができる。
「だろうね」
「でしょうね」
青夜と葉月は同時に言った。
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