第32話 12
1
恐る恐るそこに目を落とす。
「何ですか、それ。文字?」
それはフローリングの床に描かれた血溜まりの上部だった。
赤い筋のようなものが二本伸びている。
一本は右上から左下へ斜めに引かれている。もう一本はその右側にあり、ゆるやかなカーブを描いたその様は漢字の「乙」のようにも、アルファベットの「Z」のようにも見える。
また、二本とも下の部分が血溜まりに飲み込まれてしまっている。そしてちょうどその真下にはある英生の左手は、人差し指だけが伸びており、残る四本の指は握りこまれていた。まるでその人差し指で何かを書いたように見える。
もしや、これは……
「ダイイングメッセージ、なのでしょうか」
偶然飛び散った血が、このようにくっきりとした二筋の血痕になるとは考えられない。
とすると、これは死にゆく英生が最期の力を振り絞って残したダイイングメッセージであると考えるのが自然ではないか。
青夜は神妙な面持ちで頷いて、
「そう考えるのが自然だ。英生おじさんは殴り倒された後もかすかに息があったようだ。そして犯人の正体に気づき、それを俺たちに伝えようとした。しかし、机までペンと紙を取りに行く気力は残されていなかった。だから、自分の血を使って床に告発のメッセージを残したんだと思う」
「なんと書いてあるんでしょうか」
「かなり乱暴な解釈だが、見えている部分をそのまま文字として認識するならば、俺はこれを12と読める」
「12、たしかに」
なるほど、斜めに引かれた棒を1、そしてその右側にあるにょろにょろと曲がりくねっている方を2と読めなくはない。
「仮にここに書き残された文字が12だとしたら、それはいったい何を意味しているのでしょうか。12、12……」
「犯人の名前を直接書いてくれれば話は早かったんだがな。そうは問屋がおろしてくれない。まあ、犯人にダイイングメッセージを発見されてしまうリスクを嫌った、という推理小説的解釈しておこうか。ただ、英生おじさんが残したこの12――と読める血文字が犯人に関連しているということに疑いの余地はないだろう」
殺人事件の被害者が、最後の力を振り絞って伝言を残すとしたら、その内容は自分を襲った人間の名前以外にないはずである。そこに異論はない。
「12……12」
僕は機械的にその数字を呟く。
12。
トランプのカードはクイーンを表し、原子番号12は亜鉛(Mg)を意味する。
十二番目のアルファベットはLでプロ野球は十二の球団で構成されている。
タロットの十二番目は
単位では、十二個で1ダース、十二か月で一年となる。
時計の文字盤には1から12まで数字が並び、ほかにも「12」にまつわるものはたくさんある。
十二支、十二星座、十二宮……
しかしながら、特定の誰かを示しているかというと、どれもはっきりそうだとは言えない。
「青夜さん、この家に住む人間で、12という数字で表せる人はいるんですか?」
「うーん、難しいね。最初は年齢かと思ったが十二歳の人間はいないし、十二月生まれなら、一人だけいるにはいるが……」
「誰です?」
「英生おじさんだ」
「……ああ」
「ただ、虫の息の英生おじさんが残したものだ。そう難しい暗号ではないと思うし、複雑なメッセージを考える気力は残されていなかったと想像する。だからむしろ、これはシンプルすぎるほどに犯人を指し示しているはずなんだ」
「しかし、大紋家に12が直接関係する人間はいないのでしょう?」
「うーむ、もしかしたら、これは書きかけなのかもしれないな」
「12の次に別の数字が続くはずだった、ということですか?」
「数字かどうかは断定できないが、これが完成形であるという保証はどこにもない」
なるほど、考えられない話ではない。
英生が何らかのメッセージを残そうとしている最中に力尽きて、中途半端な形で途切れてしまい、それが結果的にこのいびつな「12」となった可能性は十分考えられる。
いや、そもそもこれが12であるという前提からして間違っているのかもしれない。
これ以上ダイイングメッセージについて検討を重ねても答えが得られそうにないので、僕たちは別の問題に目を向けた。すなわち、英生がいつ殺されたのか、という事件の根幹について。
青夜は英生の亡骸を仰向けに起こし、ざっと見分する。
「死斑は現れだしているが、死後硬直は始まっていないな。死体現象から死亡推定時刻を特定するのは不可能だ。検死ができれば話は別なんだが」
「お義父さんを最後に見かけたのは誰なんでしょう。それでおおよその犯行時刻が絞れると思うんですが」
「俺が最後に英生おじさんを見たのは、家族会議の場だったな」
「僕も同じです」
「俺の記憶が確かなら、あの人は家族会議が終わった後、すぐに部屋から出て行った」
「僕はそこまで覚えていませんが……」
「少なくとも家族会議が終わった十二時半から黒音おばさんが遺体を発見する二時十五分ごろまでに犯行が行われている。この間のアリバイ調査は必須だな。一応、大望くんにも訊いておこうかな。君は第二の殺人があったとされるこの一時間四十五分の間、どこで何をしていた?」
射るような青夜の視線を受けて、僕は狼狽しながら、
「あの、僕が犯人である可能性は0パーセントでは?」
「それはそうだが、何、情報は少しでも多い方がいいからね。ま、俺が君を疑っているわけではないから、気楽に答えてくれたまえ」
「たしか、あの後――」
源二が事件についての対応を厳命し、小ホールでの会合はそれで終了した。
その後、一同はぽつぽつと席を立ち始め、思い思いの場所へ向かっていった。
僕は希愛と共に本館を後にして、別館のラウンジへ向かった。正確な時刻は記憶していないが、午後一時にはなっていなかっただろう。それから僕たちは無言の時間を過ごした。
思わぬ――いや最悪の――形で家の秘密が僕に漏れてしまったことに、希愛は激しい後悔と罪悪を感じていたようだった。
ようやく口を開いたかと思うと、涙声での謝罪をぽろぽろとこぼすばかりで、僕が何度宥めてもそこに会話は成り立たず、また黙ってしまうという繰り返しだった。
そしてようやく希愛の精神状態が安定し、僕の言葉が彼女に届き始めたところで青夜がやって来て、第二の殺人が起きたことを知った。そして今に至るのだ。
「ではその間、君たちはずっと別館のラウンジにいたのかい?」
「はい」
不幸中の幸い――この表現を用いることが不謹慎であることは重々承知しているが、僕と希愛がずっと一緒にいた間に英生が殺された以上、希愛は犯人ではない。
「途中でどちらかが席を立つこともなかった?」
「そりゃトイレくらいは行きましたけど、五分もかかっていません。たった五分で本館まで行って、殺人を犯して戻ってくるなんて、そんなことは人間にはできっこありませんよ」
「それはそうだが」
「何か?」
どうも不服そうな表情の青夜である。
「いや、別に」
「何か考えがあるんですか?」
「……」
反応は芳しくないが、青夜の表情、そして視線の小さなゆらぎは、僕の質問に対して否定の意を表しているようには見えなかった。
2
それから僕たちは、英生の遺体に合掌を捧げ、殺人現場となった書斎を後にした。
廊下に一歩足を踏み出したその瞬間、僕は背筋に冷たいものを感じた。というのも、戸口のすぐ真横の死角となる位置に、葉月が無表情のまま立ち尽くしていたのだ。
「うわ、ハルナちゃん」
「ごきげんよう、大望さん」
「葉月、無事だったか」
「今度は英生おじさんが殺されたのね」
言って、彼女は口角を上げた。
目は相変わらずの無表情で、口元だけが笑っているそのいびつな笑顔に、僕は再び寒気を覚える。これが親族の死に直面した中学生のする表情か?
「見ない方がいい。お前も一緒に食堂に来るんだ」
後ろ手に扉を閉めて、兄は妹に厳しい目を向ける。
青夜の中では、実の妹すら疑うべき存在と化しているのだろう。葉月は何も返さず、くるりと振り返って、
「面白くなってきたわね」
そう言い残し、ぱたぱたと廊下の奥へと駆けて行った。
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