第23話 前日譚 その3
1
お光を抱くことによって煮えたぎる情欲を解消する術を手にした源十郎だったが、男とは実に勝手な生き物で、ある程度回数をこなすとそれが日常的な刺激になってしまい、飽きがきてしまうのである。
一か月も経つ頃には、初めての時ほどの快感、満足感は得られなくなり、惰性で彼女の許へ通うようになっていた。
しかし、それは性欲の減退を意味するわけではなく、子供とは思えないほどの脂ぎった情欲は源十郎の未成熟な体に溜まり続けていた。
源十郎の周りにはたくさんの女がいるが、ほとんどが年増か醜女ばかりなので、お光に飽きたからといって相手を変えるということもできないし、行為そのものは気持ちがいいので、自分を苦しめる性衝動の処理と考えれば大きな不満はなかった。
とりあえず情欲が満足すると、抑え込まれていた例の殺人衝動が再び顔を出し始めるのだが、こればかりは上手い解消方法が見つからない。
何とか父や使用人の目を逃れることはできないものか、と頭をひねるが、この狭い村の中ではそれも無理な話である。
おそらくこの時代が源十郎にとってもっとも苦悶の時代であった。
自分を取り巻く全てが自分の邪魔しているように思えてしかたなかった。
ああそれにしても、人を殺したい。
その欲求は日に日に強くなるばかりだった。
2
大正十年(一九二一年)、源十郎は尋常中学校を卒業し、高等学校へ通うために上京する。これが彼の人生最大の転機だった。つまり、父の監視の目から解放されたのである。
上京にあたって、女中のヨネが世話係としてついてきたが、これはかなり高齢の老女だったので、なんら問題はなかった。
ちなみに、幸いというべきかお光は源十郎の種を宿すことなく翌年大正十一年(一九二二年)に村の男に嫁いでいる。
さて、殺人衝動の最大の障壁であった父の存在。
それが取り払われた今、もう源十郎を止めることは誰にもできなかった。
無論、警官にだけはバレないよう注意が必要だが、彼らには源十郎が殺人衝動を患っているという予備知識などないため、こちらが慎重に動き、証拠を残さなければまず疑われることはないだろう。
万が一、疑惑をかけられることがあったとしても、華族という立場を上手く使えばうやむやにできるはずだ。
父の用意した二階建ての一軒家はヨネと二人で暮らすには広すぎるほどで、空室がいくつもあった。いずれはこの空いた部屋に女を住まわせ、お光の代わりとして使うことを考えていた。
やりたいことは山ほどあるが、とりあえず東京の生活に慣れるために数週間は何も行動を起こさずに過ごした。
華族の出ということもあって、学校生活では色々と優遇された。
成績も優秀で人当たりもいいため、学校生活における問題はこれといってなかった。
ただ、基本的に自己中心的で内向的という性格は変わっていないため、友達はあまりできなかった。学校が終わると、一人で街を練り歩き、土地勘を養った。
東京の街は華やかだったが、それ以上に街を歩く女の子たちは活動写真から抜け出してきたかのような、とびきりの華やかさだった。
西洋風の服装や文化に染まったモダンガールたちのまとう異国的な色香は、信州の女たちの芋臭さに慣れた源十郎にとって衝撃的だった。
今すぐにでも彼女たちを暗がりに引っ張り、犯したい衝動を我慢するのに苦労した。
東京での生活にも慣れ、人気の少ない場所や時間帯による人通りの変化などが判ってくると、いよいよ殺人を起こす準備を進めた。
*
源十郎の住んでいる住宅街から一キロほど離れたところに歓楽街があり、その中に廃ビルが建っていた。
浮浪者も寄り付かないほど陰気で不潔なビルで、管理人もいないため隠れて殺人を行うにはうってつけの場所だった。
おまけに周りはビアホールやバーなどの飲み屋ばかりで、道行く酔客たちの騒々しさに比べたら、多少の物音などは気づかれないだろうという計算もあった。
ヨネが床に就いたのを確認すると、源十郎はコートを着て、帽子とマスクと眼鏡で人相を隠し、夜の闇に紛れた。
袖に中には小型のナイフを忍ばせ、今宵の獲物を物色しながら街を歩き回った。
できれば最初のターゲットは女がよかった。というのも、禁欲生活が長く続いたため、源十郎はあっちの方の我慢も限界だったのである。
相手が女ならば、殺人の前に犯すことができるため、一石二鳥なのだ。
廃ビルの周辺で獲物を探し、ようやく彼のお眼鏡にかなう女を見つけた。
全体的にふっくらとした若く美しい女で、服装やまとう雰囲気などから判断するにどこかの店の女給らしい。しかも都合がいいことに彼女は廃ビルの方向へと向かっているではないか。
今から出勤なのかそれとも帰る途中なのかは判らないが、とにかくあの女をターゲットに決めた。
先回りし、廃ビルの表に立って女が近づくのを待った。彼女がやって来ると、源十郎は「あの」と声をかけた。
「なんざんしょ」
女は足を止め、源十郎を睨んだ。
この時の源十郎の服装は見るからに怪しいものだったので、女の反応は自然なものだと言える。その視線から感じ取れる彼女の気の強さに、源十郎の嗜虐心は燃え上がった。
「あんた、どこの店のもんかね」
「なんであんたにそんなこと言わなくちゃならん」
「もう帰るとこか?」
「今から店に出るんよ」
やはり商売女だったか。
「いくら貰ってる? ほれ」
源十郎が懐から五
「裏のビルの中で
無論、源十郎はこの女を行為後に殺す予定である。しかし、できる限り穏便に女を連れ込むことができるのなら、それに越したことはない。
払うつもりのない金をひらひらとさせながら、源十郎は女の顔を覗き込んだ。
それにしても、と源十郎は思う。
女というのは、実に打算的で強欲な生き物である。最初に声をかけた時は怪しいものを見るような目をしていたのに、札束をちらつかせるだけで警戒心を解き、媚びるような表情を作り始めた。
「どうじゃ?」
「ちょっとでいいのかい?」
「ああ、ちょっとでいい。お姉さんべっぴんじゃから、すぐ出ちまうわ。ほれ、こっちじゃ」
そして女を廃ビルに連れ込み、溜まりに溜まった情欲を吐き出すと、着替えている女の背中に何回もナイフを振り下ろした。
女の秘部から精液があふれ出し、流れ出た血と混じり合う。その猟奇的な光景は、源十郎が存分に満足できた証でもあった。
人生二度目、約十三年ぶりの殺人を終えてビルを出た時、源十郎の体は羽がついたように軽く、彼の心の中には実に爽やかな風が吹いていた。
3
大正十二年(一九二三年)の九月、関東大地震が東京を襲った。
これにより南関東を中心に東京は壊滅的な打撃を受けた。
当時は木造住宅が多く密集していたことと、台風の強い風が吹き込んできたことが原因で火災が広範囲に広がり、多くの被害を出した。
判っているだけでも死傷者数は十万人を超えたとされている。
源十郎が住んでいた家は火災や倒壊こそ免れたものの、女中のヨネが家具の下敷きになてしまった。
ヨネとは比較的良好な関係を築いていた源十郎だった。彼女は源十郎が生まれる前から大紋家で働いており、かれこれ二十年の付き合いになる。
だが、人情と己の欲望を切り離して考えることができるのが源十郎という男である。
ヨネの上にのしかかってきた箪笥の重さ、大きさは相当なもので、ヨネは複数の箇所を骨折していた。
助け出したとしても、高齢のヨネが回復する見込みは薄いだろう。そう判断し、源十郎は彼女を己の欲望の贄にしようと考えた。
東京に来て二年。源十郎が殺した人数は優に三桁を超えていた。彼の殺人衝動は週に一、二回の頻度で起きており、そのたびに彼は夜の街へ繰り出し、人を殺した。
性衝動が活発になるとターゲットを女に絞り、例のビルに連れ込んで犯して殺した。
ヨネにとって不幸だったのは、折しもこの時、彼の殺人衝動が目を覚ましていたことだった。
そして彼女にとって幸運だったのは、地震の衝撃で気絶していたことであろうか。
孫のように可愛がってきた源十郎が多くの罪のない人間の命を奪い、そして遂にその毒牙を自分に向けた、という残酷な事実を知らずに済んだのだから。
ヨネを殺害する決心をすると、源十郎は物置から金槌を持ち出した。ヨネの殺害は見知らぬ人間を殺すのとはわけが違う。彼女は源十郎にとって身近な人間であるため、下手を打てば警官に引っ張られる可能性があるのだ。
刺殺や絞殺は殺人を匂わせ、源十郎に疑惑を向ける結果になりかねないのでできない。
倒れた箪笥の下敷きになり死んだ、という具合に彼女の死を処理してもらいたいので、取るべき手段は撲殺か殴殺に限られる。
総白髪のヨネの頭の前にしゃがみ込み、金槌を握りしめた手を振り上げる。
そこに一切の躊躇はなく、気がつくと血まみれになったヨネの頭が目の前にあった。
ヨネの死は源十郎の目論見通り、此度の大地震による不運な死として処理された。さすがに、ヨネを犯すことはなかった。
記録的な被害を出した関東大震災だが、悪魔の生まれ変わりとも呼ぶべき源十郎にとっては、結果的に非常に喜ばしいものだった。
焼け落ちた家や倒壊したに侵入すれば、無残な人の死体を拝むことができるし、かろうじて息のある被災者がいた場合、こっそり息の根を止めることもできた。
軍や警察は復興の対応に追われ、この源十郎の暴虐を止めるものは誰もいなかった。
また、今回の震災が朝鮮人の陰謀であるという根も葉もない噂が流れたり、朝鮮人が混乱に乗じて犯罪行為を画策しているという下達が内務省から警察署へ送られ、その内容が報道機関から漏れたりしたため、民衆が治安維持を大義名分に朝鮮人をリンチして虐殺するという恐ろしい事件が各地で起きた。
もちろん源十郎がこのような虐殺行為に加担しなかったわけがなく、彼は暴徒と化した民衆に紛れて多くの朝鮮人を殺してまわった。
ただ、源十郎は朝鮮人の陰謀論などには全く信じておらず、治安維持の意識もなかった。彼が朝鮮人虐殺に参加したのは、ひとえに己の悦楽のためだった。
4
大正十三年(一九二四年)、源十郎は東京帝国大学へ進学する。
またこの年、源十郎は父の薦めで
徳子は貴族院議員の
すらりと背が高く、全体的にほっそりとした美人で、感情をあまり表に出さない慎ましい性格の女性だった。
源十郎が異性に求めるのは基本的に性行為のみで、そこに恋愛感情などは一切なかった。
なので、徳子との縁談を受けたのも、自由に性欲処理ができる女を手元に置いておきたかった、という最低の理由からだった。
しかし、この源十郎の意識は初夜を迎えて一変する。
昼間おとなしい女ほど、夜は元気になるのだ。つまり徳子は、性欲の化け物である源十郎と同等か、それ以上の好きものだったのだ。
精が全て絞り取られてしまうのではないか、と源十郎が恐れるほどの名器を持ち、おまけに床上手ときている。
徳子は、源十郎がこれまで抱いてきた中で最高の女だった。二人は毎晩のように求め合い、互いの体をむさぼった。
徳子が夜遅くまで求めるものだから、源十郎はもう一つの欲求である殺人衝動の解消に苦労した。さすがに、行為後に夜に繰り出す体力はなく、自然と殺人の頻度は落ちていった。
翌年、すなわち大正十四年(一九二五年)、徳子は長男の
源十郎は天源を目に入れても痛くないほど可愛がった。多くの人間の命を奪い、そして多くの女を辱めたその手で、源十郎は天源を抱き上げ、慈愛に満ちたまなざしを注いだ。
その翌年には第二子となる、次男
幼少期の天源・清兄弟は、幼い頃の源十郎に似て非常におとなしい子供だった。外へ出て遊ぶよりも、家の中で本を読んだりするのが好きで、いつも徳子にべったりだった。
特に天源は病気がちで、いつも青白い顔でこんこん咳をしていた。一歳年下の清に体力で敵わないほどで、喧嘩をすればいつも天源が負けていた。それを不憫に思い、源十郎は何かにつけて天源の世話をした。
「父ちゃん、俺な、大きくなったら兵隊さんになりたい」
体の弱さがコンプレックスとなったのか、天源は強さの象徴である帝国陸軍に憧れた。
大陸を相手に果敢に戦ってきた兵隊たちは、子供たちの羨望の的だったのだ。
当時の日本は軍国主義が主流となり、軍部が内政に介入するようになっていた。恐慌の波を乗り越え、軍需を優先し、日本は大陸への進出を目指した。
「なれるかな」
「なれるとも」
「本当?」
「ああ、本当さ」
「俺、絶対に兵隊さんになるんだ」
夢を語る息子とそれを励ます父親。源十郎が大量殺人鬼であることに目をつむれば、その語らいは理想的な父子のそれだった。
帝国大学を卒業後、源十郎は当時盛んだった製糸業に投資して財を築いた。
日本の製糸業は世界恐慌によって一時停滞するも、源十郎はぎりぎりのところでこの恐慌をかわし、財を保持したまま別の事業へ手を広げた。
愛する妻と子供たちに囲まれ、事業も順風満帆。源十郎は幸せな毎日を送っていた。
昭和六年には三男坊
彼にとっても、そして周りにとっても平穏な時期が続いた。
子供たちはすくすくと育ち、天源も大きな病を得ることなく小学校に入学した。体力も人並みにつき、弟たちを相手に憧れの兵隊さんごっこをするようになった。
昭和八年(一九三三年)、大陸進出をきっかけに世界から孤立し始めていた日本は、遂に国際連盟を脱退する。破滅への階段に、足をかけた瞬間だった。
*
日中戦争が激化し、やがて日本は戦争の道を突き進み始めた。太平洋戦争が勃発し、日本は破滅の道を歩み始めた。
一九四三年、兵力不足を解決するために学徒出陣の令が出され、多くの若者たちが戦場へ送りこまれた。
かねてから兵隊に憧れていた天源も動員され、一九四五年二月に沖縄へ送られた。
その四か月後に沖縄の玉砕が報じられ、天源は小さな骨片となって源十郎のところに帰ってきた。
しかし、源十郎を襲った悲劇はこれだけではなかった。
当時徳子と子供たちは源十郎の地元である長野に疎開していたのだが、終戦の二日前八月十三日に行われた長野空襲によって、徳子が命を落としたのである。
愛する妻と息子を戦争で亡くし、源十郎は深い絶望の底にいた。
この時、彼は反省し、懺悔すべきだったのだ。
家族を不条理に奪われる地獄のような苦しみを、彼は数えきれないくらいの人間に与えてきたのだ。
己の悦楽のために罪のない人間を殺し、その遺族に耐えきれないほどの悲しみを与えてきたのだ。
これを罰として受け止め、鬼子母神の逸話のように自らの行為を悔いることができれば、この後の悲劇はなかっただろう。
忘れかけていたあの感覚が蘇る。
母の死に触れた時にも同じ感覚を味わった。愛する妻と子の死によって、人の死がもたらす背徳の味を彼は思い出した。
悪魔は、どこまで堕ちても悪魔なのだった。
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