第33話 アリバイ調査
1
――食堂。
普段は家人たちが和やかな食事を楽しむはずの空間にはしかし、耐えがたいほどの陰気な空気が満ちていた。
希愛と黒音は寄り添うようにしてテーブルの端に座っている。
その斜め正面には河崎がいて、気まずそうな表情でお茶をすすっていた。僕たちの到着に気づくと、待っていましたと言わんばかりに、河崎はさっと立ち上がった。
「河崎さん、アイスコーヒーを二杯。大望くんもアイスコーヒーでいいだろ?」
「え? あ、はい」
「かしこまりました」
正直飲み物などいらなかったが、断る必要も気力もなく、言われるままに頷いた。
河崎が厨房の方へ駆け出すのを見送ってから、僕たちは母娘の向かいに腰を下ろす。両者とも深いショックでやつれているように見えたが、目には生気が宿っていた。
「私、犯人を絶対に許しません」
普段の希愛からは想像もつかないほどの冷たい声だった。
「皆同じ気持ちだ」
青夜はぼんやりと周囲を見回しながらそう言った。
飲み物が運ばれてくると、青夜は砂糖をたっぷり入れてから口をつけた。美味そうに半分ほど飲むと、ふうっと息をついて、
「やっぱりカフェインはいい。どんなに追い込まれた状況でも、強引に活力を生み出してくれる。大望くんも飲むといい」
「僕はいいです」
「朝からほとんどものを口にしていないだろう? 頭を働かせるには糖分とカフェインが一番だ」
そういえば、今日は朝から衝撃的な出来事の連続で、食事はおろか満足に水分も摂っていなかった。
一度その事実に気づいてしまうと、途端に猛烈な空腹が襲ってきた。その誘惑には勝てず、半ば無意識のうちに手が動いていた。
砂糖をたっぷり入れたアイスコーヒーを胃に収めると、どん底だった気分がいくらか和らぎ、思考に余裕が戻ってきた。
「これからどうなるのでしょうな」
ぽつりと老コックが漏らす。
「源二様には恩がありますし、ここ以外に行くあてなどありませんから、あの方の方針に反対するつもりは毛頭ございません。が、このまま誰が犯人かも判らないまま犠牲者だけが増えていくのを黙って傍観しているというのも……」
河崎の言葉の端々からは諦めの感情がひしひしと感じられた。
「犠牲者が増える前に、俺たちで犯人を捕まえるしかありません」
「捕まえるって、そんなことできるのかしら」
黒音が諦めたように呟く。
「英生おじさんの事件は、茜ちゃんの事件とは違い白昼堂々と行われています。さっき書斎を調べていたら、さまざまな手掛かりが見つかったんです。例えば、英生おじさんは死の間際にメッセージを残していました」
「ダイイングメッセージ、でしょうか」
期待に満ちた目で河崎が青夜を見つめる。
「ええ、しかしながら肝心の内容がちょっと異様でしてね。12と読める血文字なんです」
「12……1と2?」
希愛が怪訝そうに目を細める。
「だが、それが文字通り12を示しているかは判らない」
「暗号なのかしら」
黒音が困ったように眉根を寄せる。
「直接犯人の名前を書いてくれたらそれで解決だったのに、お父さん、そういうとこ抜けてますよね」
「ええ、あの人らしいといえばらしいけれど」
「犯人に気づかれて、隠滅させられる危険を想定したのかもしれない。重要な事実は、英生おじさんが何らかの意味を込めたメッセージを残したという点だ」
「でももし私が犯人だったら、例え自分の名前じゃなくても気づいたら消しちゃいますよ。殺した相手が残したものってことは、直接的だろうと間接的だろうと、犯人を表しているに違いないんですから」
「……希愛に推理小説を書かせちゃあいけないな」
「やめなさい、希愛。あなたが犯人なわけないわ。そうでしょう?」
黒音は怯えたような表情で希愛を見た。それを受けて、希愛は小さくうつむく。
「うん。ごめんなさい、お母さん。それで、他にはどんな手掛かりが?」
そうして、青夜は先ほどの見分で判明した事柄を簡単に説明した。
現場は英生の書斎で、凶器は書斎に置かれていた置時計であること。左側頭部を殴られており、また犯行推定時刻は十二時半から午後二時十五分までの一時間四十五分の間。
「たしかに、英生様はいの一番にホールから出ていかれましたな」
河崎が古い記憶を手繰るような目で言った。
「源二さんと真っ向から言い合いをしたから、気まずかったのね。あの人、意外と神経が細い人だから」
情報不足のため多めに取られた犯行推定時刻については、今のところ誰も異論はないようだった。ひとまずこれを前提に検討が進められた。
「ダイイングメッセージについてはまた後で詳しく考察するとして、まずはここにいる皆のアリバイ調査をしたい。十二時半から、二時十五分まで、各々どこで何をしていたのか」
「あの、犯人は、源十郎の血を引いている者の中にいるんじゃないんですか? だからその、お母さんや大望くん、それに河崎さんのアリバイは関係ないんじゃないのかなって」
希愛は先ほど僕が抱いたのと同じ疑問を口にした。
「そうだね。この際はっきり言っておこう。希愛、大和、太一伯父さん。親父に葉月。そして俺。犯人は源十郎の血が『目覚めた』者であるという前提でこの事件を考えると、今名前が挙がった人間の中に犯人がいるはずで、俺が特に疑いの目を向けているのは源十郎の血を直接引くこの五人だけ――俺を入れれば六人か。重要なのはこの六人のアリバイだ。ただ、それ以外の人間がどこで何をしていたのかを調べることは決して無駄なことではないと思う。全員の行動が把握できれば誰かの証言に矛盾があることに気づいたり、別の誰かのアリバイの裏付けになったりするかもしれないからね」
「なるほど」
希愛が納得したようなので、改めてこの場にいる人間のアリバイ調べが始まった。
「人に訊くにはまず自分から。まずは俺から行こう」
青夜が語るところによると、彼は家族会議の後、最後まで本館の小ホールに残っていたらしい。皆が散り散りに退室し、最後の一人になっても、彼はしばらくそこを離れずにいたそうだ。
「動くのがひどく億劫でね。ぼんやりと、色んなことを考えていた」
一人残った彼は、何を考えていたのだろう。茜のことか。それとも大紋家の未来か。少なくとも、明るいものではないことだけは想像できた。
「そして一時過ぎに別館に行って、茜ちゃんの部屋を調べてみた。何か手掛かりが残されていないかと期待したんだが、特に何も発見できなかった。それから本館に戻ってすぐ、黒音おばさんの悲鳴を聞いて、現場である書斎に駆け付けた、とこういうわけさ」
「誰かと会ったりはしなかったんですか?」
希愛が訊く。
「ああ。だから俺の行動を保証してくれる人間はいない」
自嘲めいた調子でそう締めくくると青夜は立ち上がり、隅の棚から手帳とペンを取り出した。そして河崎の方を向いて、
「次、河崎さんに訊きましょう。十二時半から午後二時十五分頃まで、どこで何をしていましたか?」
河崎は斜め上に視線をやって、考えるようなそぶりを見せたのち、背後の観音開きの扉の方を見やった。どうやらあそこが厨房に繋がっているらしい。
「そこ――本館の厨房におりました。食事を作れという指示はいただいておりませんが、何かしていないとどうも落ち着かないので、軽食を作ったり、夕食の仕込みをしていました。それに、あそこなら万が一犯人に襲われても包丁なんかがありますからな。ただでは殺されません。刺し違えて見せましょう」
右手を突き出すような動作を見せ、河崎は乾いた声で笑った。彼なりの冗談なのだろうが、この状況では全く笑えない。
「黒音様の声が聞こえたのは、トマトを煮込んでいるときでしたな。これは何事だ、と思い、すぐに火を止めて声のした方へ駆けつけたわけです。老いぼれですが、耳だけはいいのですよ」
「ずっと厨房にいたわけですか。その間、誰かがやってくるということはありましたか?」
「一時半頃でしたか、鳥谷がお茶を淹れにきました。そういえば、三人分用意していました」
「それはたしかですか? 黒音おばさん」
青夜はペンを走らせながら目を黒音の方へ動かす。
「ええ。喉が渇いた、と私が言ったら、鳥谷さんが『私が』と言って行ってくれました」
「戻ってきたのは?」
「一時五十分頃かしら」
青夜は河崎に視線を戻して、
「それで、何か話したりは?」
「ええ、しましたよ。ただ、喋ったのはほとんど鳥谷だけですが。会話を交わした、というよりも、これからどうなるんでしょう、というような鳥谷の不安を一方的に聞かされた形です。鳥谷はここで働き始めてまだ五年ほどですから、目覚めた者の起こす事件はこれが初めてで不安だったのでしょう」
その言い草は、まるで彼がいくつもの事件を経験してきたかのようだった。いや、事実経験しているのだろう。悪魔の血によって引き起こされた、もの悲しい過去の事件を。
「用意をしながら十五分ほど雑談をして、彼女は出ていきました。それ以降は、誰とも会いませんでしたね。扉は開け放していたので食堂の中も見えていましたが、誰も来ませんでした。こんな状況では腹具合を気にする者はいないということでしょう」
移動時間を往復五分と見積もれば、厨房にいた時間と合わせて正味二十分。黒音の証言と矛盾はしない。
「英生おじさんを最後に見たのは?」
「小ホールでの集まりが最後でした」
容疑者候補からは外れている河崎だが、彼に完全なアリバイはなかった。
それから黒音、僕の順で聴取が行われた。黒音は先ほど語った事件発覚までの経緯を繰り返し、僕も青夜に話したのと同じ内容を改めて話した。
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