第8話  大紋家の謎

 1



 四方から蝉の声が聞こえてくる。


 みんみん、じーじー、つくつくぼうし。


 子供の頃、蝉を捕まえようとしておしっこをかけられたことがあるため、蝉そのものはあまり好きではないのだが、この風情ある鳴き声だけは別だ。

 うるさいと嫌う人も世の中にいるそうだが、蝉の声ほど心が高揚する音はないと思う。


「はぐれないように、しっかりついてきて」


 再び木に囲まれた遊歩道を歩く。

 大和の足取りには迷いがなく、僕には同じような景色の連続に見える遊歩道を、勝手知ったる調子でぐんぐん進んでいった。

 さすがは大紋の人間といったところか。しかしそれは同時に、彼があの広場へ何度も通っていることののようにも思われた。


「大和くんは中学生ですか?」


「いえ、小五です。五月に十一歳になりました。あの、どうして年下の僕に丁寧語を使うんですか?」


 不思議そうに首を傾げて、大和は訊く。


「くせみたいなものですよ。この話し方が落ち着くんです」


 基本的に、僕は誰に対しても丁寧語で接する。両親にも、友人にも、恋人にも。どうしてか、と問われたら返答に困るのだが、とにかくこの話し方が一番自分の性に合っているように思うのである。


「ふぅん、希愛姉さんみたいだ」


 葉月にも先ほど同じようなことを言われた。


「あっ」


 大和が声を上げ、立ち止まった。僕もそれに合わせて足を止める。


「どうしたんですか?」


 彼の視線は右手の林の中へ注がれている。


「あそこ」


 見ると、鬱蒼とした茂みの中に、黒々とした小さな何かがうずくまっている。あれは……猫か。葉月の黒猫――シロだ。


「シロですね」


「大望さん、知ってるの?」


「さっき葉月ちゃんが逃げたシロを追いかけてたんですよ」


 葉月と出会った経緯を簡単に説明する。大和は聞いているのかいないのか、無言のままシロを注視していた。


「しょっちゅうなんだ。シロが葉月ちゃんの部屋から逃げ出すの。いい加減放し飼いにしてあげればいいのに。猫だって狭い部屋よりも、外で自由に生活した方が絶対いいに決まってるもん。シロ、シロ」


 大和が声をかけると、いくばくかの間をおいて「にゃあ」と愛らしい声が返ってきた。そして、うずくまっていたシロは起き上がり、のしのしとこちらに歩み寄ってくる。


 猫についての知識が乏しいため、品種は判らないが、毛並みのいい綺麗な黒猫だ。大和はしゃがみ込み、足の間に入ってきたシロを抱え上げた。


「よっと」


「おや、目の色が違いますね。右目は青なのに、左目は黄色だ」


「珍しいでしょ」


「ええ、なんというか、恐ろしいような、美しいような」


 美しい猫であることに変わりはないが、左右の目の色が違うだけでこうも不安定な印象を受けるとは。


「あれからずいぶん経ったけど、まだ見つけられていなかったんですね」


「うちの庭は広いからね。まあでも、絶対に逃げられることはないんだし、やっぱり放し飼いにした方がいいよ」



 2



 シロを抱いたまま、大和は歩みを再開する。やがて、僕たちは南北の館を結ぶ直線に出た。


「やあ、よかったです。ありがとうございます」


 これで別館に戻れる。所要時間は僕があの広場へたどり着いた時の半分以下だった。


「じゃあ、僕は別館へ戻りますね」


「あ、ちょっと待って」


 僕が南方向へ足を向けると、大和が慌てたように言った。


「さっきの、あの、僕があそこにいたこと、誰にも言わないでね」


「あそこっていうのは、あの石の建物ですか?」


 シロを胸に抱いたまま、大和はうんうんと大きく首を振った。その様子は子供とは思えないほど鬼気迫っている。周囲を見回し、こちらに顔を寄せて囁く。


「大望さんも、まだあそこに行ったことは誰にも言わない方がいいよ」


 大和の口調、表情には思い詰めたような強張りが感じられた。


 どうしてそこまで……


 あの場所へ足を踏み入れることが大紋家にとってのタブーということなのだろうか。

 ではなぜこの少年はあそこにいたのだろう。タブーを破るほどの何かが、あそこにはあるのか?

 それに彼は「まだ」と言った。それはつまり、今は「まだ」関わることが許されず、「いつか」あの場所の秘密を知る機会を得られるということだろうか?


 それはいったい、いつなのだろう。


 ――もし君が希愛と結ばれることを心から望むのなら、いずれ知る時が来るだろうさ。


 これは今朝の青夜の言葉だ。


 そうだ、そういえば彼も僕に対して何かを隠していたような……


 この家には、大紋家には、僕の知らない、知らされていない秘密がある。今、僕はそれを確信した。


「もちろん、誰にも言いません。約束します。それにしてもあの場所は……」


 僕の問いかけを、「あっ」という甲高い声が遮った。


「シロ!」


 声の主は葉月だった。先ほど会った時と同じ、黒いワンピースを可憐に着こなしている。彼女は本館の方からやってきたようだ。


「よかったぁ、見つかったのね」


 言いながら、葉月はこちらに駆け寄る。


「ちゃんと自分で探してあげなよ」


 ぶすっとした口調で大和は言い、シロを葉月に手渡した。


「疲れたから、ちょっと休憩してたのよ。ありがと。二人が見つけてくれたの?」


「う、うん」


 葉月は石鹸のような香りをまとっており、彼女が動くたびに甘ったるい匂いが鼻孔をくすぐった。


「僕はほとんど何もしてません。見つけたのは大和くんですよ」


「あら、二人はいつの間に仲良くなったのかしら」


 大和がこっそりと目配せする。今しがた交わした約束を思い出し、僕は小さく頷いた。


「林の中を散策していたら、ばったり大和くんと会ったんですよ。ねえ?」


「うん」


「あ、そう」


「じゃあ僕、もう戻るから」


 何かから逃げるように、大和は本館へ続く道を走っていった。

 取り残された僕と葉月は無言のまま小さくなっていく少年の背中を見つめた。大和の姿が見えなくなると、「にゃあお」とシロが甘い声を出した。


「それにしても綺麗な猫ですね」


「ふふん、私が選んで決めたのよ」


 得意げに葉月は言った。


「触ってみる?」


「えっ」


〈愛の家〉で犬を飼っていたので犬の扱いには慣れている。だが、猫はそもそも触れ合う機会がない上に、手を出すとひっかかれそう、という勝手なイメージがあり、今までほとんど触ったことがなかった。


「ほら。気持ちいいわよ」


 葉月が喉の下をくすぐるように触ると、シロはごろごろといくぶん低い声を出した。これは気持ちがいいという合図なのだろうか。


「あ、では」


 そっと頭を撫でてみる。ああ、たしかに気持ちがいい。なんだか子供の頭を撫でているようだ。

 暖かくて、少し弾力がある。こりこりとしているのは、骨だろうか。


「大望さんは大学生?」


「はい。大学二年です」


 シロを撫でながら、僕は答える。


「じゃあ希愛姉と同い年ね」


 学年は同じだが、希愛の誕生日は三月十二日なので四月生まれの僕とは実は一年近い差がある。


「葉月ちゃんは?」


「私は中二。来月で十四歳になるの」


「中学生ですか。ここからだと通学は大変じゃないですか?」


「あ、それは大丈夫。通ってるのは全寮制の私立女子校だから。それにここからそんなに遠くもないしね。帰ろうと思えばいつでも帰れるの」


 訊けば、彼女の通う女子校は長野市内にあるお嬢様学校で大紋グループが経営に関わっているという。


「でもね、お休みの日でも四六時中お世話係の人がついていて、寮の部屋を行き来するのにも監視の目があるの。羽を伸ばせるのは、家に帰ってきた時だけなの。自由がなくって嫌になっちゃうわ」


「そうなんですか」


 お金持ちのお嬢様方が通う学校となると、やはり規律の厳しい環境なのだろうか。経験がないので判らないが、少し異様に感じた。


「大変ですね」


「万が一のことを考えたら、それが一番安全だもの。それはそうと大望さん、駄目よ」


 突然、葉月は声を落として言った。


「……え?」


「あの場所に近づいちゃ駄目よ」


「え、あの……」













「あの場所は禁忌。タブーよ」












「……」


 あの場所と聞いて、すぐに思い浮かんだのは今しがた大和と会った広場だった。もしや、あそこに立ち入ったのがバレたのか?


「大和くんとはあの場所でめぐりあったのでしょう。やめなさい、っていつも言ってるのに、あの子は時々みんなの目を盗んであそこに行ってるの。悪い子」


「ええと、その」


 全てを見透かすような、少女とは思えぬあの鋭い眼差し。

 それが僕に向けられている。どうして判ったのだろう? まさか、彼女もあそこにいて、僕たちの様子を監視していたというのか。


「どうして判ったか気になる? ふふ、私ね、猫とお話しできるの。今シロに聞いたの。あの場所へ行ったんでしょう。シロが見てたわよ。うふふ」


 視線を落とすと、黒猫の青と黄色の二つの瞳が、妖しく輝いている。瞬間的に恐怖が全身を駆け抜け、僕はシロの頭から手を離した。


「それは……」


「なぁーんて、冗談よ」


「え?」


 葉月が放っていた刺すような威圧感はなりを潜め、愛らしい年頃の少女の顔に戻っていた。


「でも、この大紋の屋敷にはたとえ家人でもむやみに入ってはいけない場所があるの。これは事実よ。だから大望さんも、あんまり好き勝手に動き回らない方がいいわ」


「葉月ちゃん……それはつまり――」


「私のことは、『ハルナ』と呼んで。それじゃあね。大望さん。私、あなたのこと気に入ったわ」


「はぁ、それはどうも」


「またお話しましょ」


 そう言い残して、葉月は大和と同じように本館へと帰っていった。石鹸の甘い香りが風にかき消される。


 頭の中は疑問符でいっぱいだった。


 葉月が口にした「あの場所」とは、すなわち、あの石碑と石の建物のある広場のことだろう。


 ああ、あの場所はいったい何なのだ。


 家人ですらむやみに近づいてはならないというのなら、どうして大和はあの場所にいたのか。何が目的で……何をしていたのか……そして、なぜ近づいてはいけないのか。


 謎だけが増えていく。


 希愛。


 君は、君の生家は、こんな山奥にどんな秘密を隠しているんだ……


 愛する人が遠い存在になってしまったような気がした。


 強い風が吹き、周囲の木々がざわめいた。


 葉月の黒い後ろ姿が見えなくなっても、僕はその場に立ち尽くしていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る