幕間 悪魔の半生
第21話 前日譚 その1
1
大紋源十郎が生まれたのは、信州の山深い村だった。
明治三六年(一九〇三年)、華族である父と良家の娘である母との間に長男として生を受けた。
両親はようやく授かった待望の男児ということもあって、源十郎をそれはそれは大切に育てた。
源十郎が生まれた時代は、まさに日本が世界へ羽ばたく黎明の時代だった。
日清戦争、日露戦争を経て、朝鮮を支配下に置くことに成功した日本はやがて、その視野を、野望を、世界へ広げていく。
そんな激動の時代に生まれ落ちた源十郎の半生を簡単に紹介しよう。
悪魔と呼ばれ、多くの罪のない人間の命を奪った彼の生涯は、愛欲と血にまみれた、見るに堪えないほどのどす黒いものだった。
2
少年時代の源十郎は物静かな子だった。
村の子供たちが付近の山の中を走り回ったり川で遊んでいる頃、源十郎は大紋の屋敷にこもって、本を読んだり、絵を描いたりして過ごしていた。
しかしこれは病気がちで外に出られない、という事情があるわけではない。両親の人道的判断により、外に出ることを禁じられていたのだった。
両親は、源十郎に対して海よりも深く、山よりも大きい愛を注いで彼を育てた。
教育の名の下に彼を叱ることはあったが、むやみやたらに大声で怒鳴りつけたり、手を上げるようなことは決してなかった。
この時代に珍しく、人は愛によって作られるというのが両親の信条だった。
子供の生活環境に暴力を持ち込めば、おのずと子は暴力的な性格になってしまう。逆に、愛情をもって接すれば、心優しい人間になってくれるはずである。
しかし、残念なことに彼らの教育信念が源十郎の人格形成に影響を与えることはなかった。
こんな話がある。
五歳になったばかりの源十郎は、屋敷の裏の林の中で、近くに住む百姓の子供たちと遊んでいた。木の枝を刀に見立てた侍ごっこをしていた最中だった。
子供たちも源十郎と同じくらいの年齢で、それはそれは微笑ましい光景だった。
仲間内でも特に体が大きく、腕っぷしのあった子供が、「隙あり」と源十郎の尻を枝で叩いた。まだ手加減というものを知らない年齢だったため、強烈な痛みが源十郎を襲った。
次の瞬間、源十郎は弾かれたように振り返り、したり顔のその子供の顔面に向けて思い切り木の枝を突き刺した。
枝の先端は子供の左目に命中し、眼球を貫いた。源十郎の反撃はそれだけでは終わらず、近くに転がっていた手ごろな石を両手で持ち、目を押さえてうずくまる子供の背中へ何度も何度も叩きつけた。
子供たちの悲鳴を聞いた屋敷の使用人が駆けつけ、暴れる源十郎を取り押さえた。
目をかっと見開き、唾液をだらだらと垂れ流すその様子はまるで悪魔が乗り移ったようで、五歳の子供とはとうてい思えなかった。
源十郎が怪我を負わせた子供は、その時の傷が原因で感染症にかかり、死亡したという。
これが長い生涯の中で数多の人間の命を奪った源十郎の、初めての殺人だった。
現場に大人がいなかったことから、この事件そのものは不注意ゆえの不幸な事故として処理されたが、以来、村の子供たちは怖がって、源十郎を避けるようになった。
幼い我が子の犯した恐ろしい所業は、当然両親の耳に入った。善良でまっとうな人生を歩んできた両親は、この出来事に大きな衝撃を受け、母親の方はあまりのショックで何日も寝込んでしまった。
理由なく人を傷つけてはいけない。
人も自分と同じように痛みを感じるのだ。
自分だって痛いのは嫌だろう?
自分がされて嫌なことは人にしてはいけないよ。
これらのことを、父は厳しい口調で語って聞かせた。
が、ここでも決して手を上げることはなかった。
暴力によって物事を理解させるのでは、動物に芸を教えるのと変わらない。大切なのは、自分で善悪を判断し、それが正しいものであると理解することだ。そう信じて、父は諭すように息子を指導した。
だが、それが源十郎の心に響くことはなかった。幼い彼の心を満たしていたのは純真な欲求だった。
遊び仲間の目を突き刺した時の、なんとも言えない心地よい弾力、ほとばしる赤い血、仲間たちの悲鳴。
思い出すだけで胸がいっぱいになる。
もう一回やりたい。
ああ、もっとやってみたい。
あの時の高揚感をもう一度味わいたい。
その後も源十郎は衝動的に同じような事件を起こし、村の子供たちを傷つけた。ある時は握り込んだ石でひたすら殴りつけ、ある時は家から持ち出した包丁を片手に追いかけ回し、またある時は橋から川へ突き落とし……
死人こそでなかったものの、村一番の悪童として、源十郎の名は村中に知れ渡った。
どうして息子がこのような悪事を働くのか、両親は全く理解できなかった。
今までの源十郎はおとなしく、物分かりのよい素直な子で通っており、自慢の我が子だったのである。
その本質的なところは今も変わっていない。
子供たちに対する嗜虐的な攻撃衝動以外は、いたって普通の子供だった。
これ以上罪のない子供たちが傷つくことは許されない。善良な両親は心を鬼にして源十郎の外出を禁じた。
外界との接触を絶てば、そもそも事件は起きないはずなのだ。果たして、この決断は成功だった。
外出を禁じて以降、源十郎の異常な攻撃性は鎮まった。
その攻撃衝動が顔を出す機会を失った、というのが正しい表現なのかもしれない。
大紋の屋敷には源十郎以外に子供がおらず、どうしても外へ出なければならない時は複数の大人がお目付け役として同行したため、彼が子供たちと会うことはほとんどなかったのである。
こうなると、源十郎にとって外というものに興味が持てなくなるのも当然だった。
村を取り囲む豊かな山々の連なりも、清らかな川のせせらぎも、季節ごとに変わる風の匂いも、どれもこれも、彼の好奇心を刺激するには少々美しすぎた。
彼が求めたのは、人を傷つけることによって得られる悦楽だけだった。
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