第20話 地下にて
1
青夜を先頭に、石造りの階段を、一段ずつ一段ずつ、慎重に下りていく。
下へ向かうたびに雨の音が遠のき、現世から隔絶された裏世界へ踏み入ってしまったような錯覚に陥った。
こつん、こつんと、二人分の足音が狭い空間に反響する。勾配が急なわけでもなかったが、何せ暗いのでしっかり足元を照らさないと誤って足を踏み外してしまう恐れがあった。
「ここは……」
階段を下りきると、正面に細長い通路が延びていた。
懐中電灯を前に向け、僕たちは歩を進めた。
歩くたび、この地下に造られたそれらを目にするたびに、僕の体に戦慄が走った。現代日本に、このようなものがあっていいはずがない。
通路の左右の壁には鉄製の頑丈そうな扉がいくつも並び、各扉の横の壁には鉄格子の窓がはめ込まれている。
扉も鉄格子も錆び付きがひどく、長い間放置されていたことが判る。
一つの鉄格子の前で足を止め、懐中電灯を片手に中を覗いてみる。
そこは四畳ほどの空間だった。藁を敷いただけの粗末な寝床のようなものが奥にあり、その真上の壁から鉄製と思われる太い鎖がぶら下がっている。
牢獄。
そんな単語が頭に浮かんだ。
それ以外に、この小部屋の用途があるだろうか。猛獣を飼育していたとも思えない。
ここは明らかに人を閉じ込めておくための空間である。囚われた人間はあの鎖で手や足の自由を奪われるのだろう。
誰が、どのような理由でこの牢獄に監禁されていたのか。
壁には燭台が取り付けられており、大きさや溶け具合はまちまちだがろうそくも残っていた。青夜はライターで火を点けて回り、やがて十分な明かりを確保するに至った。
そして内部の全貌が明らかになる。
鉄扉の数は左右にそれぞれ五枚、そして突き当たりに一枚の計十一枚である。すなわち、最大で十一人の人間をこの地下に監禁できるのだ。
淀んだ空気が肌にまとわりつき、実に不快だった。しかし、それ以上に、僕の心はこの人の尊厳を踏みにじる監禁施設に対して、とめどない憤りと怒りでいっぱいだった。
建造時期がどれほど昔なのかは判らないが、おそらく水も電気も通っていないだろう。風呂やトイレといったものも発見できない。
「青夜さん、先ほど言いましたよね。上の広場で多くの人間が命を落とした、と」
「言ったね」
「その方々はこの牢獄の中に囚われていた人たちなのですか?」
数秒の間をおいて、青夜は「そうだ」と言った。
「ではここは、刑場だったのですか?」
一抹の期待を込めて僕は訊いた。正式な刑場として造られた場所ということなら、少なくとも犯罪的な目的はないということになる。しかし――
「そんな記録はないね」
青夜は突き放すように言った。
「ここはね、ある男が個人的な悦楽のために造った、おぞましい牢獄なのさ」
「ある男というのは、大紋家の?」
「そう。俺たちの体には、その男の忌々しい血が流れている。さあ、進もうか」
僕たちは突き当りの扉の前まで歩き詰めた。
そこは他の牢獄とは少しばかり造りが異なっていた。ひとまわり大きいその鉄扉は、全面が細かい格子状になっているため、内部が覗けるようになっていた。
下部には縦十五センチ、横二十センチほどの隙間がある。この扉で事足りるのか、監視用の鉄格子の窓はなかった。
「ここだけ、他と造りが違うようですが」
「近寄って覗いてみてごらん」
言われるがまま、顔を寄せる。そして懐中電灯で中を照らそうとしたその瞬間、僕は自分の耳を疑った。
空気を裂くような音が、扉の奥から聞こえてきたのである。ひゅうう、ひゅうう、と。それはまさしく人の呼吸音だった。
中に誰かいる。
青夜を振り返ると、彼は眉間にしわを刻み、険しい目を僕越しに扉へ向けている。
「あ、あの青夜さん……中に、人が」
この牢獄は過去に使われていたものだとばかり思っていた。
まさか、現在進行形で人が囚われているなんて思いもよらなかった。人がこの中にいる。その事実が何より僕を震え上がらせた。
「人がいます――中に、人が」
現代日本で、希愛の生家で、このような監禁行為が行われているなんて……
「大望くん、こっちに来るんだ。後は俺の仕事だ」
言って青夜は僕と入れ替わるように扉の前に立った。
取っ手に手をかけ、開こうとするが、がしゃがしゃと音がするだけで開かない。施錠はしっかりされているようだ。それを確認し終えると、青夜は扉の向こうに声を投げた。
「扉はきちんと閉まっているね。太一伯父さん。そこにいらっしゃいますか」
太一だって? 僕は驚いて青夜に詰め寄った。
「青夜さん、太一さんはたしか、亡くなられたはずでは?」
希愛の話では、大和の父であり、美空の夫である大紋太一はすでに亡くなっているということだった。
「そういうことになっているだけだよ。ある理由から、太一伯父さんはその存在を表社会から抹消されることになったんだ。そしてこれは、太一伯父さん自身の意志でもある」
「何を、言っているんですか? こんなことをして、許されると思っているのですか?」
何が何だか判らなかった。どんな理由があろうとも、人を監禁していいはずがない。それは現代日本では犯罪行為なのだから。
「騒がしいな」
その時、男の声が扉の向こうから聞こえた。くもぐったような、やけに聞き取りづらい声だった。
青夜は口元に人差し指を当て、黙るようジェスチャーを送った。それで、僕は山ほどある質問を飲み込み、口を閉じた。
「大和か?」
扉の奥からごそごそと音がし、中の人物が体を動かしたことが判った。
「それとも飯の時間か?」
「いえ、俺です。青夜です」
「はっはぁ、珍しい来客じゃないか」
「ご無沙汰してます、太一伯父さん。お休み中でしたか?」
「ああ、ぐっすりと眠っていたよ。ここじゃあ、食事と睡眠以外に快楽がないからなぁ。それで、いったい何の用だ」
「再び、事件が起きてしまいました」
青夜がそう告げると、太一は声を落として、
「ほう。誰が殺された」
「紙谷茜。使用人の女の子です」
「名前で言われても判らんな。いつも食事を運んでくる女か?」
「いえ、それは鳥谷
どうやら鳥谷はここへ太一の食事を運ぶらしい。
「はん。誰が殺されたのかなんてのはどうでもいいか。で、誰が目覚めた? それが何よりも重要だ。まさか大和じゃないだろうな」
「残念ながら犯人はまだ捕まっていません」
「逃したのか?」
「いえ、夜が明けたらすでに事件は起きていました。犯行を目撃した者は一人としていません」
「ふむ、なるほど、それで俺がここから脱走して殺したんじゃないかと疑って確認しに来たわけだな」
「そういうことなら話は早いんですがね」
「はっはっは。残念だったな。俺はここから一歩も出てねぇよ。出られねぇし、出る気もねぇ。第一俺が出たら死人は一人じゃすまないぜ」
「でしょうね。太一伯父さん、今でも人を殺したいと思いますか?」
「一度目覚めた血はもう元には戻らねぇ。だから俺はここにいるんだ」
「愚問でしたね」
僕は悄然と立ち尽くし、二人の会話を聞いていた。その内容は、まるで太一が過去に殺人を犯したことがあるかのような、不穏なものだった。
「もう一人、そこにいるのは誰だ?」
扉の向こうから視線を感じ、僕は居住まいを正した。
「大望くんです。希愛の恋人で、一昨日の晩からここに滞在しています」
「希愛に恋人が……あの娘もそんな年か」
「もう十年経ちますからね……」
「ふっふっふ、そうか。あの時はまだしょんべん臭いがきんちょだったなぁ。そうか、そりゃあ大和も大きくなるわけだ」
この時、僕は大和が人目を忍んでここに通っていた理由を察した。大和は、自分の父親に会いに来ていたのだ。檻の向こうにいる、太一に会いに。
「青夜、お前はあの時は高校生だったか。懐かしい、懐かしいなぁ……葉月は幼稚園児だったな。ぴょこぴょこ、いつもお前の後ろをついていた……そうだ、そういえばもう一人いたな、名前は何だったか。たしか……」
「
鼻を鳴らし、胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、青夜はそれを扉の下の隙間から投げ入れた。
「いらねぇよこんなもん」
「煙草はお好きでしたでしょう」
「健康のために禁煙中なんだよ」
煙草の箱が扉の下の隙間から飛び出してきた。青夜はそれを足で受け止め、無言で拾い上げた。
「警察へはもう通報したのか?」
「今現在英生おじさんが車で助けを呼びに行っています。大雨のせいで、電話が繋がらないんですよ」
「外は雨か?」
「ひどい嵐です」
「あの夜と同じだな……」
「ええ」
「それにしても源二がよく許可を出したな。警察に介入されることは歓迎すべきことではないだろう。これはあくまで大紋家の問題だ」
「反対されることは判りきっていますから、英生おじさんは父には何も言わずに飛び出していきました」
「馬鹿なやつめ。大紋家の醜聞をわざわざ公に広めに行くとは。いったい何のために俺がここにいると思ってるんだ」
苛立たしげに太一は吐き捨てた。
「犯人は姿をくらませており、誰が犯人なのか見当は全くついていません。放置すれば、さらなる事件が起きる可能性があります。新たな犠牲者を出さないためにも、世間体なんかは気にしていられないのですよ」
「お前も英生と同じ立場か?」
「いえ。しかし、場合によっては警察の力が必要になるかもしれないとは思っています。次に狙われるのは大和や美空伯母さんかもしれませんから」
「……ふん」
「ありがとうございました」
そして彼は踵を返し、燭台の火を吹き消しながら階段へ引き返した。
2
地下牢獄を抜け出し、傘を開いて外へ出た。
忌々しい雨の音になぜか緊張がほぐれる。無事元の世界に帰りつくことができた、と本気でそう思ったくらい、地下に流れる空気は異質だった。
「青夜さん、太一さんはどうしてこんなところに閉じ込められているんですか。目覚める、とは何ですか。太一さんは過去に殺人を犯したんですか? それに雪桃というのはあなたの――」
僕は青夜に詰め寄った。訊きたいことが山ほどあるのだ。
「君が今、大いに混乱していることは判る。だから、俺は全てを話すつもりだ」
「ええ、ええ。話していただかなくては困ります。正直言って、謎だけが余計に増えた状態なんです」
「大紋家が抱える問題、君にとっては秘密か。それを説明する前にまず、全ての元凶となったある男について話さなくてはならない」
その時、空が一瞬白んだ。遅れて、ごろごろごろ、と大きな雷鳴が大気を震わせる。
「ある男というのは、さっき言いかけた……」
「そうだ。そいつの忌々しい血が全ての元凶なんだ」
憎々しげに空へ声を投げると青夜は暗い空を睨みつけた。
「まずはその男の話をしよう。オチも山場もない、ただただ胸糞悪いだけの話だが……大紋
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