第19話  悪魔

 1



 食堂に戻った僕は、第一発見者である鳥谷と河崎から遺体発見の経緯を聞かされた。


 それをまとめると次のようになる。




 鳥谷は今朝六時に起き、身支度を済ませてから本館へ向かったそうだ。これは本館の住人たちの朝食の用意をするためで、基本的に鳥谷が本館の、そして茜が別館の朝食の準備を任せられているという。


 雨の中傘を差し、外へ出た鳥谷はいつものように別館を迂回して林の道へと向かった。

 その途中、彼女は不審な光景を目撃した。窓が割れているのである。

 そこは西側一階の、一番南寄りの窓だった。すなわち、茜の部屋の窓が割れていたのだ。


 その場に立ち尽くし、窓が割れていることの意味を考えた。

 この嵐によって何かが飛ばされ、ぶつかったのではないか。

 まずそう考えた。しかし、それならもっと大きな穴が開くのではなかろうか。


 穴の位置はスクリュー錠のすぐ近くで、それほど大きくはない。まるで誰かが鍵を開けるためにわざとその位置に開けたとしか思えなかった。そうして、彼女は昨晩の騒動を思い出した。


 恐る恐る窓に近づき、そっと中を覗いてみた。


 カーテンは開かれていたが明かりは点いておらず、太陽の光もないので室内の状況は判らなかった。


 次に彼女は窓の下に何かが落ちてはいないかどうか確認した。風で飛ばされた何かが偶然窓に当たり、窓が割れてしまった、という可能性はそこで潰えた。

 窓の下、またその付近には割れたガラスの破片しか落ちていなかったのである。


 誰かが窓ガラスを割り、茜の部屋に侵入した。


 そう確信した鳥谷は大急ぎで別館に戻り、茜の部屋へ走った。

 ドアに拳を打ち付け、大声で茜を呼ぶ。しかし、彼女は出てこない。

 普段ならもう起き出している時間である。それなのに茜は出てこない。鳥谷は半泣きになりながら必死にドアを叩き、若い同僚の名を叫んだ。


 その騒ぎに気づいたのか、同じ階に住む河崎がやってきた。


 事情を説明すると、河崎は鳥谷と同じようにドアを叩き、声をかけた。

 何度繰り返しても茜が出てこない。


 しびれを切らした河崎はドアを破るしかない、と判断した。二人でドアに体当たりをし、何度目かでドアを破ることに成功した。そうして、変わり果てた茜を発見したのである。



 *



「本当にひどいことでございます。紙谷はまだ若く、人生これから、という年齢でした」


 そう呟いて、河崎は下唇を噛んだ。彼に孫娘がいれば、きっと茜ぐらいの年齢だろう。

 鳥谷はテーブルの上に目を落としたまま動かない。遺体を発見した際の衝撃が抜けないのか、それとも在りし日の茜を思い出しているのか……


 長い沈黙が続いた。


 視線を虚空に漂わせながら、僕は考える。


 生きている茜を最後に目撃したのは、昨晩の騒動の時である。

 解散したのはたしか午前三時頃だったか。六時過ぎに茜の遺体が発見されたということは、犯行は三時過ぎから六時頃までの間に行われたという話になる。


 約三時間。


 僕が眠りについたのは何時頃だったか。少なくとも五時までは起きていたように思うが、特に不審な物音などは聞かなかった。

 深夜から明朝にかけてとなるとほとんどの人間が眠っていたと主張をするだろう。

 直接訊いてみなくてははっきりとしてことは言えないが、この屋敷にいるほとんどの人間は刑事ドラマなどでよく使われる(僕は全くと言っていいほど見ないが)アリバイというやつを主張できないと思われる。


 山深いところにひっそりと建つ大紋邸である。外部の人間が山を越えて侵入してきたとは思えない。この家の中に犯人はいて、それは僕の知っている人間かもしれない。


 僕がこの家に来てから出会った人間の中に、女性の顔を刃物でめった刺しにするような人間がいたとは思えないし、思いたくない。あれはまさに悪魔の所業である。


(……悪魔)


 そういえば、悪魔という言葉をどこかで耳にした。この家を訪れてからのことだ。記憶の糸を手繰る。あれはたしか……




 ――悪魔に運命を捻じ曲げられた、哀れな子羊よ。




 葉月の声が、脳内に冷たく響き渡る。


 そうだ、葉月は伯母である大紋美空に対してそのようなことを言っていた。

 あれはいったい、どういう意味なのだろう。

 まだ美空という人物には会えていない。葉月が言うには、彼女はいつも怯えていて、息子である大和以外は信用しないらしいが……


 悪魔か。


 美空の運命を捻じ曲げた悪魔とはいったい何なのだろう。彼女の過去に、いったいどんな出来事があったのだろう。悪魔は、彼女に対してどのような暴行を働いたのだろう。


 また、この家では多くの人間が不幸な亡くなり方をし、その魂を慰めるために慰霊碑を建てたそうだ。

 もしかすると、美空を襲った悲劇もそれと関係があるのかもしれない。そして、今回の事件ももしや、この家で起きたと思われる事件、もしくは事故と関連があるのではないか?


 僕は口を開いた。


「青夜さん、悪魔とは何なのでしょうか」


 その瞬間、場の空気が一変した。僕以外の三人が、凍り付いた顔をして僕の方を見やった。中でも、青夜は額にどっと汗を浮かべ、青ざめた顔をしている。


「大望くん、急に何を言い出すんだ」


「あ、いえ、ちょっと気になっていたことがありまして」


 悪魔という言葉を用いて、葉月が美空を紹介していたことを説明する。


「運命を捻じ曲げられたというのは、どういう意味なのですか? それが過去に彼女を襲った何らかの事故や事件を暗示しているのなら、今回の殺人とも関連があるのではないでしょうか」


 青夜は黙ったままじっと目をつむっていた。鳥谷は落ち着きなく肩を震わせ、きょろきょろと視線を移ろわせている。


「青夜様」


 河崎がしわがれた声で言った。


「まさかとは思いますが、から」


「ええ、俺もそれを考えています。しかしまさかそんな」


「可能性はゼロではありません」


 青夜は目を開け、ふう、と息をついた。胸ポケットから煙草の箱を取り出し、雑な手つきで一本加える。


「絶対にありえない、とは言い切れない。確認しておかなくてはならないな」


「何の話ですか?」


 しびれを切らして僕が訊く。青夜は横目でこちらを見ると、口元に微笑を浮かべた。


「大望くんにも来てもらおうか。いい機会だ」


「はぁ」


「このまま何の説明も受けず、事情も判らないまま恐怖に怯え続けるというのは酷な話だ。それに、もう君は悪魔の起こした事件に巻き込まれた関係者だからね。全てを知っておく義務も権利もあるはずだ」


 言って青夜はさっそうと腰を上げた。


「私もご一緒しましょうか?」


 河崎が青夜を見上げる。


「いえ、河崎さんはここに残っていてください。鳥谷さんだけでは何かあった時危ない。さあ、行こうか。大望くん」


「行くとは、いったいどこに?」


 火を点けたばかりの煙草を灰皿に捨て、青夜は不敵に笑った。


「悪魔のところさ」



 2



 林の空気は真夏とは思えないほど冷え切っていた。

 雨のつぶてが傘を打ち、けたたましい音が絶えず頭上から響いている。石畳の道は水で溢れ、少し歩いただけで靴の中はびしょ濡れになってしまった。


 僕たちは今、西側の林の遊歩道を歩いている。


「青夜さん、どこに向かうというのですか?」


 雨にかき消されないよう、僕は声を張った。傘を差したまま並んで歩けるほどの幅はないため、僕は青夜の斜め後ろにぴったり付いている。


「この大紋家の中でもっとも重要な場所さ」


「それはつまり、あの慰霊碑の?」


「そう」


「この家の秘密を、教えてくれるということですか?」


「ああ」


 昨日、青夜にあの場所について訊ねても、明確な答えは得られなかった。

 この家で命を落とした人間がいたという暗い事実は聞かされたが、その詳細についても青夜は口を割らず、謎だけが増えた結果となった。


 それがどうして今日になって真相を教える気になったのだろう。先ほど彼は「悪魔の起こした事件」と言った。


 悪魔とは何だ?


 青夜にはすでに事件の全容が掴めているのか?


 今回の事件とあの場所にはやはり関係があるのか?


 十五分ほどで例の広場へ辿り着いた。

 この悪天候のせいで、より陰気で怪しい空気が蔓延しているように思う。

 こんなことを言ったら失礼かもしれないが、まるで心霊スポットに足を踏み入れたような心地だった。


 青夜は慰霊碑の前で足を止めた。石造りの台座に鎮座する縦長の巨大な岩。表面は雨に濡れて黒々としている。


「昨日、この家で多くの人間が命を落とした、と言ったよね」


「ええ」


「そのほとんどはね、この場所で死んだんだ」


「この広場で、ですか?」


「そうだ。この広場には、きっとたくさんの魂が彷徨っていることだろう」


 ぐるりと首を回して、青夜は周囲を見回した。

 目に映らない何かを探すような、焦点の定まらない視線をぐるぐる動かし、やがて彼は慰霊碑の裏手の建物に目をやった。


 石造りの、木製の扉がついただけのこぢんまりとした建物である。


 葉月の話では、大和は人目を忍んでこの建物を訪れるそうだ。昨日ここで大和と会った時、彼はたいそう驚いていた。

 それはきっと、こっそり訪れていたことに対する後ろめたさというものがあったからだろう。


「青夜さん、あの中には何があるんですか?」


「入れば判るさ」


 ぐずぐずにぬかるんだ地面を大股で歩き詰め、青夜は石造りの建物へと向かった。

 扉に手をかけ、慎重に開く。


 待ち受けていたのは闇である。明かり採りの窓も電灯もないようで、開かれた入り口から差し込む微弱な光が唯一の光源だった。


「ここに懐中電灯がある」


 青夜は先に入り、戸口の横に手を伸ばした。ややあって、二本のまばゆい光線が彼の手もとから放たれた。僕はおずおずと中へ入る。


「さあ、これを」


 僕は畳んだ傘を左手に持ち、青夜から懐中電灯を受け取った。それを適当に振って内部を観察する。


 壁も床も天井も、やはり全て石でできている。


 が、それだけである。


 これといって注目すべきものはない。戸口の横に懐中電灯を保管するための小さな棚があるだけで、それ以外に置かれているものは何もないのだ。


 実に殺風景な空間である。


 広さは六畳ほどで、天井が低いため圧迫感がある。内部を満たす空気はじっとり湿っていて、異臭というほどではないが変な臭いがした。


「何もありませんが……」


「下だよ。ほら、そこだ」


 青夜は右手奥の床の辺りを照らした。すると、そこに地下へ続く階段が浮かび上がった。


「ここは少なくとも半世紀以上前に建てられたそうだ」


「そんなに前からですか?」


 僕は驚きの声を上げた。


「この屋敷のほとんどの建物は竣工してからかなりの年月が経過している。補修やリフォームを繰り返して小綺麗にしてはいるが、建物自体はかなり古いものばかりなんだ」


 昨日の朝、外から別館を眺めた時、たしかに僕は全体的に古めかしい印象を感じた。

 内装が綺麗だっただけに、そのギャップは大きかった。一緒にいた希愛もかなり古い建物であると言っていた。


「さて、大望くん。心の準備はいいかな? 君は今からこの家のもっとも重要な秘密、その一端を目にすることになる」


 わざとそうしているのか、それとも彼自身緊張しているのか、青夜の声はひどくかすれていた。


 生唾を飲み込み、僕は深く息を吐いた。


 緊張していないと言えば嘘になる。この建物の中に足を一歩踏み入れた時から、僕の心臓は今にも爆発してしまいそうなほど激しく動いていた。手のひらは汗でびしょびしょだった。


「それが悪魔ですか?」


「ああそうさ。かなりショッキングなものかもしれないが。特に君のように繊細な神経の人間にはね」


「行きます。行かせてください」


 絞り出すように僕は言った。ここまで来て、引き返すわけにはいかない。


「よし。では下りようか」




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