第45話  ごめんね

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「母は自らを殺すことで、自分を悩ませる殺人衝動に決着をつけた。殺人を罰せられる恐怖に、耐えられなくなった。ある夜、母は深夜に私を起こして、大紋家のことと母の過去、不定期に起こる殺人衝動、そして自分の罪について、知る限りのすべてを告白してきた。そんなことを突然言われても、子供だった私には信じることはできなかったし、理解することもできなかった。大紋家なんて、母はそれまで一度だって口にしなかった。源十郎という父親の名前だって初めて聞いた。ただ、母が泣き出しそうな顔をしていたから、無視することはしないで、じっと聞いていただけだったわ。次の日起きてみると、母は首を吊って死んでいた」



 黒音の目から涙の粒が落ちた。



「母のことは大好きだったけれど、その時は不思議と悲しくはなかった。それどころか、なんだかわくわくした気分になって、警察に通報をしたのを覚えてる。初めて目にした人の死体はどんな高級な洋服よりも綺麗に見えた。それが母だったから、私はまずます母が好きになったの」



「親の遺体を見て、そんなことを思うなんて……」


「狂ってると思うかしら?」



 黒音の大きな瞳に射抜かれて、僕は返事に窮した。


 源十郎とその娘の間に生まれた黒音。つまり、彼女は悪魔の血を色濃く受け継いだ、源十郎になのだ。


 その残虐な嗜好が少女の自分より顔を覗かせていたということは、やはり重要なのは環境ではないということになってしまうのか?


 黒音の育った環境に人の死は皆無だった。


 結局、人は血の運命には逆らえないのか?


 僕は落胆していた。


 黒音の子供である僕にも、悪魔の血は流れている。ということは、僕もいつか、無意識のうちに誰かを殺してしまうのだろうか。

 この数日で、何人もの人の死に触れてきた。しかし、そこに快楽を感じることなどなかった。僕は正常だ。


「それから、私は小さな孤児院に引き取られた。高校を卒業するまでそこで生活を続けたのだけれど、とても退屈だった。母の死体を見た時のような高揚感は、施設では全く得られなかった。それどころか、その時になってようやく母と死に別れたことに悲しみを感じるようになったの。施設には、そんな親の愛に飢えた子供たちがたくさんいて、それにつけこんで悪さをする大人がいた」



 毒々しい想像がよぎる。



「でも、大半の子たちはそれを受け入れていたわ。親を失った寂しさを埋めるように、たとえただの性欲でも自分を求めてくれることに幸せを感じていた。私も、その一人だった。孤児院の事務員と、関係を持ったわ。母が恋しくて、毎晩泣きながら眠るよりも、男の腕に抱かれていたほうが安心できたから。高校を卒業するまで、施設で面倒を見てもらって、私は静岡の田舎町の工場に就職した。施設を出てからも、私に手を出した男との関係は続いていて、私はその男との間に大望、あなたを授かった。白尾しらお暖人はるとというのが、あなたのお父さんよ」



 初めて聞く名だった。


 白尾暖人。


 まるで実感が湧かない。僕が非情なわけではない。会ったこともなければ、顔写真すら見たことないのだから。僕にとっての家族は、我が家は、〈愛の家〉だけなのだ。


「その人は今、どこに?」


「もうこの世にはいないわ」


「死んでしまったのですか?」


「私が、殺した」


 黒音はここで激しくむせた。血の混じった唾液を土だらけの手で拭う姿が痛々しい。


「私は、彼に認知と婚約を迫ったの。責任を取ってくれってね。彼は二つ返事でOKを出したわ。それから、幸せな生活が始まると思っていた。母がいた頃のような、幸せな生活が待っていると思ってた。私はあの人が好きだったから。でも――私は、目覚めてしまった」



 風が出てきた。生ぬるい真夏の夜の風は、広場を通り抜け、周囲の木々へ吸い込まれていく。



「あなたを産むと、それまで抱いていた白尾への愛情が嘘のように消えていったわ。まるであなたが愛の源で、それが体外へ出て行ったから愛を感じなくなってしまったみたいに。だから、産後、退院してすぐに私はあの人に離婚届を出したの。もちろん白尾は怒ったわ。訳が分からない、いきなり何を言い出すんだってね。それは当然の意見だったのだけど、当時の私は全く受け付けなかった。それで、口論の日々が続いて、ようやく白尾が離婚に合意した日の夜、気がついたら、彼は頭から血を流して死んでいた。私が殺したと気づいたのは、手に持ってる血まみれの灰皿を見てからだった。何が何だか判らなかった。しぶしぶだったけれど、白尾は離婚に同意していた。それなのに、私は彼を殺していた。全ては私の望む方向へ動いていたのに、どうして白尾を殴り殺してしまったのか。混乱したわ。ただ一つたしかだったのは、言い表せない絶頂の快楽を感じていたこと。母の言っていた、殺人の快楽を私は理解できた」



「あなたはすでに、二十年も前に目覚めていたのですね。それからどうしたのですか?」


 冷たい、平坦な声で青夜は問う。



「自分が殺してしまったという状況を理解すると、途端に恐怖が湧いてきた。さっきまでの高揚した気分がすうっと冷めて、憑き物が落ちたような心地になったわ。このままだと捕まってしまうから、何とかごまかさなくっちゃって。まず、白尾の死を偽装するために、彼の死体をベランダから落とした。墜落の衝撃で殴り殺した傷が上手いこと隠蔽できたおかげで、白尾は離婚に精神的ショックを受けての自殺として処理されたの。驚くほど冷静に事を済ませられたわ。全てが終わった後で、私は自分が恐ろしく感じた。人を殺して、それを隠し通すなんて大それたことを、自分がやってのけたのだから。それから一週間は、バレるかもしれないという不安と、自分の犯罪に対する恐ろしさに心をすり減らして生活したわ。でも、すぐにやつが顔を出した。私の中の悪魔が、再び私を誘惑した。大望、あなたを殺せと、悪魔は囁いた」



 悪夢の中で繰り返し体験した状況が脳裏に浮かぶ。


 僕の右腕を斬りつけ、血に濡れた包丁を手に立ちすくむ黒音。


 はっとする。


 僕は一年ほど前からこの悪夢を見るようになったが、その原因はきっと、二十年という時を越えて、黒音と再会したからなのだろう。


「私は何度もその気持ちを押し殺して、自分の中に閉じ込めようとした。あなただけは、自分の血を分けたあなただけは、絶対に殺すまいと――でも、ついにその時はきた。私は、まだ生後数週間のあなたの心臓に向けて、包丁を振り下ろしてしまった。でも、運がよかったというべきなのかしら。振り下ろした瞬間に正気を取り戻して軌道を修正することができたけど、完全に避けることはできず、あなたの右腕を斬ってしまった」



 僕は無意識のうちに右腕の傷痕をさすっていた。



「大望の泣き声を聞いて、私も泣いた。でも、殺意が治まる気配は全くなかった。悲しいのに、辛いのに、あなたの腕から流れる血は、とても刺激的だった。このままだと、いつか本当に大望を殺してしまう。そんな、現実的な危機感を覚えて、私はあなたを施設に預けることにした」


「僕のことが嫌いで、捨てたのではなかったのですね」


「信じてもらえないかもしれないけれど、私は、あなたを愛していたの。それだけは本当よ」


 ではなぜ今になって僕を殺そうとしたのか。そんな僕の疑問を察知したかのように、黒音は微笑んだ。



「それから私は、極力外に出ないようにして、じっと家に引きこもって生活をしたわ。外出している最中に人を殺したくなったら、きっともう我慢できないって判ってたから。どうして自分だけがこんな目に遭うんだろうって、神様を呪いながら、会えなくなった大望のことを思いながら、狭い部屋の隅でうずくまる日々だった。殺人衝動が顔を出したら、壁を殴ったり食器を投げたりして、殺意を別の形で発散しようと大暴れしたわ。そんなことをしてるうちに騒音の苦情でマンションを追い出されて、行く当てを完全に失った。いっそのこと人を殺して刑務所に入った方が楽かもしれないと思いつめ始めた頃に、英生さんと出会った。それが転機だった」



 黒音の声から生気が失われていく。息も途切れ途切れになり、彼女の命が終わりに近づいていく。



「母の最期の選択も、あの頃の私には理解できるようになった。人を殺すくらいなら、自分で自分を殺してしまうのが、楽になれる一番の近道なんだって。でもそんな勇気は私にはなかった。私は、卑怯な人間なの。人を殺そうとするくせに、自分を殺す勇気は、持ってない。駅のホームに立って、このまま飛び降りたら楽になれるかしらと考えても、考えるだけ。実行には移せない。でも英生さんにはそう見えなかったのね。『馬鹿なことはやめるんだ』って、人目もはばからずに私の手を取ってホームの奥まで引っ張ってくれた。それが彼との出会いだった。近くの喫茶店で自殺なんてするもんじゃないって本気で私を説得してくれて、困ったことがあったらと連絡先を教えてくれた。こんなことを大望の前で言うのは心苦しいけれど、一目惚れだったわ。でも何より驚いたのは、あの人への恋心が芽生えてから、人を殺したいと思うことがなくなったのよ。突発的で、衝動的な感情の変化は、きっと源十郎の気質を受け継いでいるからなのかもね」



 希愛と互いに一目惚れしあった日のことを思い出す。あの突如僕の胸を高鳴らせた恋は、源十郎の血による衝動的なものだったのだろうか。


 そういえば、ともう一つ思い出す。源十郎もお光に夢中になっていた時期や徳子との結婚後は殺人衝動がある程度治まっていたそうだ。

 もしかすると、愛情こそが、悪魔の血を封じ込める唯一の特効薬なのかもしれない。


「それから何度も会うようになって、私たちは交際を始めた。そして、大望を産んでから二か月も経たないうちに、希愛ができた。最初にあの人の名前を聞いた時、大紋という苗字だったことには驚いたわ。大紋なんて、そうそうある苗字じゃないし、もしかしたら死の前夜に母が言っていたあの大紋なのかもと思っていたら、案の定そうだった。希愛ができても、英生さんは私にプロポーズをする前に、大紋家の秘密を打ち明けたわ。この話を聞いた上で、結婚するかどうかを決めてほしいとね。そこで源十郎の名前が出た時、私は卒倒しそうだった。でも、母の話と英生さんの話を聞いて、私を苦しめる殺人衝動や母の話の謎が全て解けた。母も私も、悪魔の血に人生を狂わされた」



「あなたは、自分の出生を英生おじさんに伝えたのですか?」


「いいえ」


 黒音は短く答えた。そうして、彼女の話は終わりを迎えた。


「結論はつまり、大望くんと希愛はあなたが産んだ異父兄妹だった。だから、近親相姦を防ぐためにあなたは大望くんを殺そうとした。そしてその行為が再びあなたに殺人の快楽を思い出させ、休眠状態にあった悪魔の血が目覚めてしまった。その結果、本来の目的でない無関係な人間まで無差別に殺してしまった」


「半分、正解よ」


「もう半分は?」


。源十郎の、悪魔の血が、濃くなってしまうから。私が恐れたのは、それよ。ただでさえ、私と英生さんから生まれた希愛には、濃い悪魔の血が流れているのに。それなのに、そこに、大望の血が加われば――」


 黒音の声がかすれてき、最後まで聞き取ることができなかった。だが、彼女の目的はようやく理解できた。


 彼女は、次の世代に悪魔の血が色濃く遺伝することを危惧したのだ。


 大紋の血筋同士の子である希愛には濃密な悪魔の血が流れている。そこに、源十郎の孫である僕の血が交じわれば、血は薄まるどころか、源十郎に近い存在が生まれる可能性がある。


 それを防ぐためには僕たちの仲を裂き、別れさせなければならないのだが、それをするにはもう遅すぎたのだ。

 こうなっては、どちらかを葬るほか道はなく、黒音は実子を天秤にかけ、希愛を取った。


「あなたの腕の傷を見て、まさか、と思ったわ。あの後、すぐに赤ちゃんだったあなたを預けた施設へ電話をして、朝霧大望がそこの出身であることを確認したの。まさか二十年も前に切り捨てたはずの子供が、娘の恋人として目の前に現れるなんて、想像もしてなかった」



 気づけば、青夜はどこかへと去っていた。取り残された僕は母の手を取り、握る。思えば、初めて握った母の手だった。


「大きい手ね。あんなに小っちゃかったのに」


 懐かしむように黒音は言った。


「僕は、幸せでしたよ。〈愛の家〉での生活も、朝霧家での生活も、悪いものじゃありませんでした。ただ、お母さんとお父さんと一緒に過ごす、普通の家庭を夢見たこともあります」


 僕たちの体に流れる悪魔の血がなければ、きっとその夢は現実となっていたことだろう。だからといって、全ての原因を源十郎に求めるのもそれは一種の逃げだと思う。

 それではこの家の本質は何も変わらない。


 僕たちの世代が変えていかなくてはならない。


「希愛のことは……」


 黒音はそこで一度言葉を切り、ためらいがちに僕を見上げた。彼女の求めた結果には、残念ながら僕は同意できない。

 全てを知ってなお、僕は希愛を想っているのだから。


「……幸せにしますよ」


 僕がそう言うと、黒音は静かに頷いた。


「大望、ごめんね、ごめんね。あの時、愛してあげられなくて、ごめんね」


 それが黒音の最期の言葉だった。



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