第44話 環境こそが……
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時折、呼気に血を混ぜながら黒音は語った。
「私の母は、源十郎と妾の間に生まれた私生児だった。祖母は戦争で親兄弟を亡くしていて、源十郎に妾として囲われたときはまだ十八かそこらだったらしいの。元々体は強くなくて、私の母――美幸を産んだ翌年に不慮の事故で死んでしまった。祖母は遠縁の身よりもなかったから、引き取り手のない私生児である美幸はこの大紋家で育てられたの。源十郎も戦後の動乱の世に自分の血を引いた赤ん坊を放り出すほどの鬼畜ではなかったのね」
黒音は微笑を浮かべて、
「妾やその子供は、たいていが、子が物心つく前の年齢になると暇を出され、わずかながらの手切れ金を持たされてここを追い出されるのだけれど、美幸はそうではなかった。母は、源十郎の手厚い庇護の下、大紋家の正統な嫡男たちと同じ扱いを受けて育てられた。いえ、それ以上に源十郎は美幸を溺愛した」
「どうしてでしょう」
青夜が静かに訊ねる。
「身寄りがないのも理由の一つだと思うけれど、源十郎が美幸を手元に置いておこうと決めたのはいずれ美幸が美しく育つだろうと期待したからよ」
言って、黒音は汚物を見るようなまなざしを虚空に向けた。まるでそこに源十郎の亡霊が佇んでいるかのように。
「実際にその顔を見たことはないけれど、祖母は大勢いた妾の中でも五指に入るくらいの美貌を持っていたそうで、その娘ならば美女になるだろうと考えた源十郎は、いずれ妾として迎えるために美幸を育てることを決めたのよ。妾の子だろうと、半分は自分の血が混じった娘を、あの悪魔は――」
その時、黒音は激しく吐血した。
「何歳の頃から源十郎に犯されていたのかは判らないけれど、その体を実父のなぶりものにされながら、陰で妾の子と蔑まれながら、母はこの家で生きてきた。他に行くあてなんかない。源十郎が突然死して、ようやく母は解放された。源十郎が死ぬと、職を失った妾たちはここを出て行った。中には給金がいいから使用人として残る者もいたそうだけどね」
「美幸さんは?」
僕が訊く。
「母も出て行ったわ。ただ、母の場合はちょっと事情が違うの」
「というと?」
「母もまた、源十郎の血を受け継いでいたということよ。美幸が源十郎に気に入られたのは、もちろんその外見の美しさも理由の一つだっただろうけど、もっと深いところで彼女は源十郎を虜にしたの。母は唯一源十郎を、彼の殺人趣味を理解できる人間だった。父と同じように、その手で命を弄ぶことに悦びを感じていたの」
「では美幸さんもこの場所にあったという処刑場で、快楽のための殺人を?」
「そうよ」
源十郎の悪魔の血を継ぐ人間に現れるという病を、美幸も発症してしまったというのか。
「母が目覚めたのはわずか十歳だった。自分の世話係の女中を何の脈絡もなく突然、花瓶で殴り殺したの。大紋の人間からは疎まれていた母だったけれど、女中との仲は悪くはなかった。むしろ、親代わりのその女中を本物の親のように慕っていたの。厚遇の自分に嫉妬して、日常的に意地悪をしてきた妾にすらなにもやり返さなかった母が、衝動的に殺人を犯してしまった。けれど、源十郎は悲しむどころかむしろ狂喜した」
その情景を見てきたかのように、黒音の言葉には熱がこもり始めた。
「子供が自分の趣味に興味を持つと、親は嬉しくなるものなのね。騒ぎ立てる大紋の人間たちを制し、母の罪を不問にすると、源十郎は母をこの刑場へと連れてきて、殺人の快楽を教え込んだ」
歪んだ親子の語らいが幻聴になって聞こえてくる。
――ここに包丁を刺してごらん。
――すごい声。
――楽しいだろう?
――うん。
「でも結局、それが裏目に出てしまった。殺人が容認される環境で、人を殺し続けたことで、母は人を殺すことに抵抗がなくなってしまった。源十郎は脳溢血で死んだんじゃないの。母が、殺したのよ」
ふん、と小さく青夜が頷いた。
「それが殺人衝動によるものだったのか、それとも自分を犯す父への純粋な殺意だったのかは判らない。結局、母は源十郎を殺した時のことは深く語らなかったから。いつものように源十郎の夜の相手をして、処刑場へ殺人を楽しみに来た母は、その場にあったナイフで源十郎を刺し殺した。そして、それが明るみに出る前にこの家から逃げて行った。その時、すでにお腹の中にはもう赤ちゃんが――つまり私がいた。源十郎は私の父であり、祖父でもあるの」
その時、僕はようやくその恐ろしい事実に気がついた。
黒音が源十郎の娘だということはつまり、僕にも彼の血が流れている。嫌悪感が体の芯から湧き上がってくる。あの悪魔の血が、僕の体に……
「母は東京に出て、夜の仕事で生計を立てながら私を育てた。祖母譲りの美貌は、金持ちの男どもを寄せ集め、金を貢がせた。だから、あまり生活には困らなかったわ。毎日三食、美味しいご飯を食べることができたし、きれいな洋服も買ってもらった。でも、母はいつも苦しそうだった。お金もあるし、食べ物にも困らない。子供を養う余裕だってある。言い寄る男どもを手玉に取って、車やマンションも手に入れて、それでも、母が満たされることはなかった。人を殺す喜びを覚えてしまったから。それまでの環境とのギャップ、つまり、殺人が許されるかどうかの違いが、母の人生を狂わせた」
作り物でない母の笑顔を見たことは数えるほどしかなかった、と黒音は続けた。
「美幸さんは、ここを出て行ってから殺人を犯してはいなかったのですか?」
青夜が訝しげに言った。
「母はちゃんと理解していたの。現代社会では、人を殺したら、相応の罰を与えられると。当然よね。源十郎が暴虐をふるっていた時代ではないのだから。それに、社会には、様々なところに監視の目が、ある。源十郎を殺してしまった自分が、今さら大紋家に戻るわけにもいかない。だから、母はずっと耐えた。時折顔を出す殺意を、ぎゅっと胸にしまい込んで」
美幸が殺人衝動を抑え込んでいたという点に対して、青夜は疑わしそうな顔をしていた。
大紋家ではそれを制御できなかったからこそ、数多くの血が流れたのだから、彼の立場で考えてみれば信じられることではないだろう。
だが、と僕は考える。
発作的に起こる殺意に身を任せて人を殺めてしまったら、黒音の言うようにいたるところに人の目があるこの社会では、あっという間に見咎められ、彼女の罪は公になってしまうはずである。
そうなれば、美幸の事件は大紋家にも伝わる。
源十郎の実子が事件を起こしたとなれば、大紋家も無視はできず、きっと事件はもみ消されることだろう。
そして、源十郎の実の娘である黒音共々、大紋家に強制送還され、源十郎殺しの犯人である美幸は地下に投獄されたはずだ。
「それは単なる保身でしょう」
青夜はぼそっと呟いた。僕も心の中で同意する。
人を殺してはいけない。
それは当たり前の感覚だったし、それを遵守することを誇らしく思うことは間違いである。
けれども、美幸が生きてきた環境はそうではなく、殺人を肯定する絶対的権力者の庇護の下、彼女は育ったのだ。
環境。
そう、結局は、人を作るのは環境なのではなかろうか。
「そうね。母が大勢の人を殺したという事実に変わりはないし、きっとそのことについて悪いとも思っていない。殺人が裁かれる環境がなければ、自分の快楽のために殺し続けたのでしょう」
「それで?」
「やっぱり、血には逆らえなかった。我慢の限界がきて、母はついに負けてしまった。私が十二歳の時だった」
「誰を殺したんです?」
「自分自身を」
言って、黒音は皮肉めいた微笑を浮かべた。
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