最終章  悪魔の系譜

第43話  答え合わせ

 1



 何の前触れもなく、それは起こった。


 地獄の底で怪物が唸るような地鳴り。


 巨人が地団太を踏むような激しい揺れ。


 内臓がシェイクされるような感覚に襲われながら、僕は黒音が崩れた石碑の下敷きになる一連の光景を目にした。コマ送りのように、一瞬一瞬がはっきり認識できた。


 それは神が起こした奇跡だったのか、それとも運命の悪戯だったのか。


 突如として発生した巨大地震は、僕の背後の石碑を倒し、黒音の細い体をいとも簡単に圧し潰してしまった。


 石碑の真下という位置が幸いしたのか、石の破片は中ほどから折れ、回転するように上部から落下したため、僕は全くの無傷だった。


「う、うぅ」


 土埃が目に染みる。


 落ちていた懐中電灯を拾い上げる。目に入ったのは惨たらしい黒音の姿だった。


「ああ、お義母さん」


 黒音は下半身を潰されていた。

 腹部から下が岩に飲み込まれており、身動きは取れそうもない。


 岩と地面の隙間から血液があふれ出す。それに呼応するかのように、激しくせき込みながら口からも吐血した。


「うぅ」


 黒音は何とか這い出そうと必死に腕を伸ばし、爪を立てて土を掴んではそれを力なく握りしめる。僕は彼女の半身にのしかかる巨岩に手をかけた。


 何をやっているんだ、僕は。彼女は僕を殺そうとしたのに、どうして助ける。そんな自分からの叱責を受けながらも、体は勝手に動いていた。


「ぐ、うぅ」


 重い。当然だろう。


 こんな岩の塊を僕のような貧弱な男が持ち上げられるはずがないではないか。それでも、ほんのわずかでも隙間を作ることができれば、黒音は這い出せるかもしれない。

 腰を落とし、重心を下げて力を出しやすい態勢をとる。しっかりと手をひっかけ、腰を勢いよく上げる。しかし、石碑はぴくりとも動かなかった。


「いったい、な、何が起きたの……地震?」


 かすれた声が足元から聞こえる。


「はぁ、そんな、あと一歩だったのに……これは……天罰なのね」


 やはり前提は間違っていたのか。


 犯人は大紋の血族ではなかった。


 いやしかし、先ほど黒音はこう言っていた。「この体に流れる悪魔の血」と。その悪魔が示すものが源十郎だとしたら、黒音もまた大紋の血族の一人なのか。


 わけが判らない。


「どうして?」


 僕の問いかけに答えるように、黒音はこちらを見上げた。


 その瞳は抑えきれぬ怒りを秘めているようでもあり、悲しみに濡れているようでもある。少なくとも、彼女が僕にいい感情を抱いていないことだけはたしかだった。


「大望、駄目なのよ」


「何がですか」


 長い間をおいて、黒音は絞り出すように言った。


「あなたと希愛は、結ばれてはいけないのよ」


「なぜ、ですか」


「まさか、あなたとこんな形で再会するとは、思ってもみなかった。よりによって、希愛の相手があなただったなんて。もっと早くあなたの正体に気づいていれば、誰も死なずに、済んだのに。穏便に、あなたたちを別れさせることができたのに……」


「言っていることの意味が判りません。希愛がどうだって言うんですか。あなたは、あなたは、いったい何がしたかったんですか?」


「希愛があなたをここに連れてきた時点で、あなたはもう大紋こっち側の人間になってしまった。だからもう、殺すしか方法がないの。大望、あなたは、希愛と結ばれてはいけない」


「なぜですか」


「あなたは、あなたたちは、私が産んだ、兄妹なのだから」


 頭が割れるように痛んだ。


 ついさっき思い出した記憶が、再び脳裏に浮上する。


 包丁を手に泣いている母。


 僕はこの顔に、この顔に見覚えがある。


 不明瞭な輪郭が徐々に鮮明になっていく。


 形容できない感情が、洪水のように僕の心に迫った。許容をはるかに超えた衝撃が、僕の感覚を麻痺させている。


 体が震える。


 視線がまともに定まらない。


 胸が痛むほどの動悸に耐えながら、僕は記憶の最も古いところに沈んでいたその顔をすくい上げる。ああ、この顔は。


 母の泣き顔が、眼前で苦しんでいる女と重なった。


「お母さん、ですか」


 黒音の目に涙が浮かんだ。



 2



 僕は膝をつき、黒音の手を取った。幾人もの人間を殺めたその手のぬくもりに、僕は懐かしさを感じずにはいられなかった。


 黒音は微々たる頷きを見せて、薄く笑った。


「こんな私を……お母さんって、呼んでくれるのね」


 荒い呼吸を繰り返しながら、黒音はひとしきり謝罪の言葉を口にした。それは僕を殺しかけた時のことだろうが、それはいったいいつのことについてなのだろうか。


 数奇な運命という言葉は、きっと僕のためにあるのだろう。どこの世界に母親に三度も殺されかけた息子がいるというのか。


 待てよ?


 さっき黒音は何と言った?


 冷静さが戻ってくると、ついさっきのやり取りの意味を伴って浮上してきた。


 黒音が僕の母ということは、ああ、それはつまり――


 あれが聞き間違いでないとしたら。


 僕の愛した彼女は、希愛は、僕の妹……?


 体をほわほわと包んでいたノスタルジックな感傷が、雲散霧消する。


 遅れてやってきた衝撃が、頭の奥で爆発し、激しい頭痛が引き起こされた。それすらもすぐに消え失せ、最後に残ったのはただひたすらに悲しい気分だった。


 腰を砕かれ、足を潰された母の姿を見て、胸が張り裂けそうになる。


 どうしてこんなことになってしまったのか。泣き出したい衝動を押さえつけ、僕は精いっぱいの強がりを見せた。


「訊きたいことは山ほどあります。どうして僕を捨てたのか、どうして赤ん坊の僕を殺そうとしたのか、でもまず訊きたいのは、あなたが起こした事件のことです」


「それは俺が話そう」


 疲弊した声が聞こえた。見ると、崩れ落ちた石碑の陰から青夜が現れた。


「青夜さん、どうしてここが判ったんですか?」


「君の血の跡を追ってきたんだよ。地面にぽつぽつと垂れていた血痕をね。運よく河崎さんがいたから、葉月の遺体は任せてきた。そんなことよりまずはこいつを動かさなくちゃあな」


 言って、青夜は黒音に冷たい怒りを放つ視線を送ったが、そのまなざしはすぐに落ち着いたものに変わった。

 そして彼は僕の横に移動すると、深く腰を落として石碑を持ち上げようと試みた。すぐに僕も同じようにしゃがんで両手を石の下に差し込む。


「呼吸を合わせるんだ、行くぞ大望くん」


「はい」


「せーっの」


「ぐっ」


 腕がちぎれんばかりの力を込めて、石碑を引き上げる。しかし、二人分の力でも黒音の上に鎮座する石碑を動かすことは不可能だった。


「もういいのよ、もう、足の感覚がないの。痛みもないわ。それより、話をしなくちゃいけない、の。私が失血死する前に、伝えなくてはいけないことが、ある……の」


 立ち上がり、青夜は両手で髪をくしゃくしゃにした。


「やはりあなたが犯人だったんですね」


「判っていた、の?」


「いえ、真相が判ったのはついさっきのことでした。何ということはない、自明の論理でしたが」


 そういえば、先ほど青夜の挙動がおかしかったのを思い出す。あの時点で彼は事件の真相に気づいていたのか。


「葉月は首を絞められて殺されていた。あの子の首に残された扼殺痕以外に、葉月を死に至らしめた傷はなかった。空には雲が覆いかぶさり、星明り一つ届かない。懐中電灯の光がなければ一寸先も見えぬこの闇の中で、。大望くん、判るかい?」


「それは、懐中電灯の光を当てれば……」


「そう。答えは子供でも判る単純なものだ。犯人は懐中電灯の光を使ってターゲットの首の位置を把握したんだ」


 納得する一方で、それがどうだというのか、という思いが僕の中で渦巻いていた。

 彼が今語ったことはしごく当然のことである。


 暗いところでは灯りが必要だ、ということを改めて説明されたところで、いったいどうやって黒音に辿り着くことができるのだろう。


 そんな僕の感情を読み取ったのか、青夜は小さく鼻を鳴らした。呆れた調子さえ感じられる。


「いいかい、ここで問題になるのが普通のハンディタイプの懐中電灯を持ったままだとという点だ。思い浮かべてくれよ。犯人は背後から忍び寄り、葉月の首に手をかけた。しかしながら、懐中電灯を持ったままだと両手で首を絞めることができず、また懐中電灯の光がなければ首を視認することができない」


「あっ」


 言われて、ようやく僕はその矛盾に気がついた。いや、矛盾というほどではない。それを解消しうる答えは、たった一つだけ存在するのだから。


「気づいたようだね。犯人はこのジレンマを解決し、実際に葉月を絞め殺している。となれば、犯人は両手がフリーになるを使っていたという結論に行き着くのは当然の結果だ。該当者は二人――」


 僕は先刻の記憶を手繰り寄せる。


 河崎と鳥谷が用意した懐中電灯の中で、ヘッドライトは二つだけしかなかった。


 それを使っていたのは青夜と黒音のみ。


 そして青夜は常に僕と共にいた。


 この事実が告発するのは、黒音こそが犯人であるという意外な真相だった。シンプルであるがゆえに、容易に崩すことのできないこの論理。


 黒音自身も一切の反論をしなかった。というよりも、この状況では弁解のしようがないだろうが。


 一連の事件の犯人を指摘した彼の論理は単純明快で意外性に満ちていた。異論を挟もうと思えば、できないことはない。しかし、それは犯人のに関することであり、犯人特定へのプロセスはどうあがいても一ミリたりとも動かすことはできなかった。


「さらに犯人は大望君の部屋の位置を知っているという条件にも黒音おばさんは当てはまる。彼女は君の部屋の位置を知っていた。昨晩、酔い潰れた君を希愛とともに部屋に連れて行っただろう」


「で、では、英生さんが残したあのダイイングメッセージは? お母さんは12という数字と関わりがあるのですか?」


「英生おじさんは、まさしく黒音おばさんが犯人であるというメッセージを残していたんだ。真相が見えてようやく、あのダイイングメッセージの意味が判った。あの血文字はだったんだよ」


 英生という名が出た瞬間、黒音の表情に悲痛なものが浮かんのを僕は見逃さなかった。


「書きかけ……」


「彼は、自分の血を使って黒音おばさんの名前を残そうとしていたんだ。ひらがなで『くろね』とね。しかし、二つの偶然が不幸にも重なって、結果的にいびつな12と読めるものに変容してしまった。一つは彼が途中で力尽きてしまったこと。そのおかげで、『くろ』としか書き残すことができなかった。ただ、この二文字だけでも残されていれば、黒音という名に結びつくことができただろうに」


「二つ目の不幸は?」


「英生おじさんの遺体から流れた血が、文字のんだ。そのおかげで『く』は斜めになった1となり、『ろ』は2となった」


「ああ……」


 英生は、いったいどのような気持ちで最期の時を過ごしたのだろう。愛した妻がすべての事件の黒幕であり、その毒牙を己にも向けたと気づいた時、彼はどのような心境だったのか。あまりにも惨すぎる。


 結果としては失敗に終わったが、彼は黒音を告発する道を選んだ。


 それはきっと彼女にこれ以上の罪を犯させないためだろうと想像するのは僕のエゴか。そうでも考えなければ、あまりにやりきれないではないか。


「ごめんなさいね、青夜くん。茜ちゃんと葉月ちゃん、それに源二さんを――」


「本音を言えば」青夜は黒音の落とした包丁を拾い上げて「あなたを殺してやりたい気持ちでいっぱいです」


「あ、青夜さん」


「安心してくれよ、大望くん。そんなことをするつもりはさらさらない」


 汚物を捨てるかのように、青夜は包丁を投げ捨てた。


「それに、俺も知りたいんです。事件そのものは解決しましたが、判らないことが多すぎる。なぜあなたなのか。あなたはなのか。そして、大望くんと希愛、この二人が兄妹であるという信じられない告白の真実についても」


「さっきの話を聞いていたのですか?」


「ああ。黒音おばさんが犯人だと気づいた時、僕は正直混乱しましたよ。俺は、犯人は大紋の人間だとばかり思っていた。それなのに、俺の目の前に浮かんだ推理は、外部から嫁いできた黒音おばさんを示している。実際問題、犯人像の謎については何一つ判らないままだった」


「そうね、伝えなくてはいけない。私の知る全てを」



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