第5話 母と子
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まもなくして、希愛が母――大紋
「どうも、ご無沙汰しております」
僕がそう言うと、黒音は穏やかな笑みを返してくれた。
希愛の母親であり、やがて僕の二人目の義理の母親となる彼女に対し、僕が抱く感情は感謝であった。希愛という存在をこの世に産んでくれたことに対する、限りない感謝。
「はるばるようこそ」
黒音はほっそりとした面立ちの美女で、実年齢よりも若く見える。
二十歳の時に希愛を産んだというから、まだぎりぎり四十手前のはずである。
肩まで伸ばした艶やかな黒髪にシミ一つない少女のような肌。希愛の姉と紹介されても全く違和感を覚えることはないだろう。
僕たちはソファーに腰を下ろした。
「二か月ぶりかしらね」
「そうですね。お義父さんはいらっしゃらないのですか?」
「ごめんなさいね、あの人、今朝急に飛び出してしまって」
希愛の実父であり、黒音の夫である大紋
大紋グループはいわゆる同族経営の企業で、英生も長野市内にある本社で副社長の地位に就いている。
「夕方には帰ってくると思うわ」
「そうですか」
「忙しいことはいいことなんですけれどねぇ、せっかく大望くんが遊びに来てくれているというのに、間が悪いというか……」
黒音の口調はいい意味でゆったりとしており、場を和ます効果があった。大学生活のことや、希愛との普段の生活について僕たちが話すのを、黒音はにこやかな笑顔で聞いていた。
「――それで、希愛さんがプールに行きたいってだだをこね――言い出したのが夜の八時をとっくに過ぎた頃で、市営プールは当然閉まっていますし、明日にしようってなだめても全然聞く耳を持たなくって」
「そうそう、この子、これで頑固なところがあるのよ」
黒音は目を細めて娘の方を見やる。
「そうなんですよ。それでナイトプールって言うんですか? 調べてみたら夜間も営業してるプールがあったんですよ。でも遠くって、タクシーを呼んで片道三十分かけて二人で行ってきましてね。それはもう大変でしたよ」
「もう、大望さんだって楽しんでたじゃないですか」
「希愛、あんまり大望くんを困らせちゃだめよ」
「判ってますよ。でもね、お母さん。大望さんだってこう見えてワガママなんですよ。まだ旬じゃないのに、急にさんまが食べたいって言い出して、それで私が――」
「あっ、そうだ! さっきそこの庭を葉月ちゃんが走っていきましたよ。シロという黒猫が逃げてしまったそうで」
僕の恥ずかしいエピソードが流布されかけたので強引に話題を転じる。そのわざとらしさに気づかないまま希愛は驚いたように口を開いて、
「もう葉月ちゃんと会ったんですか」
「うん。窓から外を眺めていたら、横からぴゅうっと黒猫がやってきて、その猫を追ってました。あの子は妹さんじゃないですよね」
「又従兄弟ですよ。青夜兄さんの妹です」
「あ、そうなんですか」
そういえば、あの二人のただならぬ雰囲気には似通ったものがあるように思う。
しかし、兄妹にしては年の差が離れすぎているような……青夜は僕よりも年を重ねているようだし、葉月はまだ十代半ばだろう。一回り近く離れているのではないか?
僕のそんな疑問を感じ取ったのか、希愛は顔を曇らせ、呟いた。
「本当は、間にもう一人いたんですけどね」
「え?」
間、とは青夜・葉月兄妹の間にもう一人、ということか? それに「いた」という表現は、今は「いない」という意味にも取れる。どうして「いない」のだろう。
希愛は黙ったままテーブルを見つめている。
「希愛」
黒音が静かに娘の名を呼んだ。
それまでの温和な声色とは一線を画した冷たい声だった。
場の空気が重苦しいものへと変容していく。それ以上何も言うな、と圧力をかけているようにも感じられ、僕は気まずい思いを味わった。
「あ、ごめんなさい、お母さん……気にしないでください、大望くん。昔の話ですから」
「はぁ」
気にしないで、と言われると余計に気になるのが人情である。
先ほどの青夜とのやり取りや今の話から考えるに、この家には何かしらの秘密が隠されているような気がしてならない。
ただ、それをこの場で追及するのはためらわれた。冷めかけた場を何とかしようと僕は再び話題を変える。
「ここはいい場所ですね。自然が豊かで、空気が気持ちいいです」
これは本心だった。
「街と離れているのが少し不便ですが、生活する分には特に問題はありませんわね。大望くんも自分の家のように自由にくつろいでくださいな」
「はい」
「山奥といっても、熊も野犬も出ませんから、安心してください」
ようやく黒音が表情を和らげたので、僕は心の中でほっと息をついた。――と思いきや、黒音は突然眉間に深いしわを刻み、険しい顔つきになった。
今度は何だろう、と彼女の視線の先に目をやる。どうやら黒音の視線は僕の右の二の腕にある例の傷に注がれていた。
「どうされたのかしら、その傷は。どこかで切ったの?」
そういえば、黒音にこの傷を見せるのはこれが初めてだった。これまで何度か会う機会があったが、いずれも長袖を着ていたので傷が隠れてしまっていたのだ。
僕は半袖を肩までまくって、全体が見えるようにした。
「これですか。いやあ、僕もよく判らないんですよ」
あえて軽い調子で言う。
「判らない、とは」
しかし、ますます黒音の表情は厳しくなる。
「子供の頃からある傷でして、どうもこの傷を負った時の記憶がないのです。たぶん物心ついて、外に出るようになってからどこかで転んで切ったんだろうな、と思うんですが……」
「子供の、頃から……」
「でも、それにしては結構深いですよね。初めて見た時はびっくりしちゃいましたよ」
希愛が覗き込み、細い指でそっと傷を撫でる。
「痛いですか?」
「いや、痛みはないですよ。でも、ちょっとくすぐったいかな」
「いつ切ったかも判らないと?」
黒音は僕の右腕から目を離さない。
「ええ、少なくとも、施設にいた頃からありました」
「……そう」
古傷について、黒音はそれ以上追求しなかった
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