第4話  黒いシロ

 1



「茜さん。私にもコーヒーを頂けますか?」


「はい、ただいま」


 湯気の立つコーヒーにふうふうと息を吹きかけ、希愛はそっと口をつける。


「おーいしー」


 一つ一つの動作が愛おしい。やはり、僕には彼女以外は考えられない。


「茜さんの淹れるコーヒーは相変わらず最高です」


「ふふっ、恐れ入ります。希愛お嬢様、大学生活にはもう慣れましたか?」


「もう、茜さん。私は今年で二年生ですよ」


 二人の姉妹のようなやり取りを眺めながら、それにしても、と考える。先ほど青夜は何を言いたかったのだろうか。


 度胸がある、とはいったい……


 もしかして希愛には僕がまだ知らないがあり、彼はそれを受け入れる度量の大きさを指して「度胸がある」という表現を用いたのだろうか。

 それとも彼女ではなく、この大紋家に関する秘密なのかもしれない。


 あの時の青夜の表情には、どこか後ろ暗いようなものを感じた。あの様子では、良い話ではなさそうだった。

 それに彼はいったい何を『研究』していたのだろう。そちらの方にも興味があった。


「……」


 ただまあ、どんな裏事情があろうとも、僕が希愛を愛することに変わりはないのだから、心配することは何もないのだけれど。


「大望さん、青夜兄さんはもう食べ終わっていましたか? 見当たりませんが」


 希愛の声で我に返る。


「うん、二階の自分の部屋に行くって言ってましたよ」


「それじゃあ私たちもそろそろあっちに行きましょうか。お母さんたちも待ってるだろうし」


 あっちとはすなわち、大紋家の本館のことだ。壁に掛かった時計を見ると、時刻は午前八時四十五分を示していた。


 身支度を済ませ、南向きの玄関から外に出る。すでに太陽は空高くまで昇っていた。

 外気温は優に三十度を超えているだろう。今年の夏は異常ともいえるほどの猛暑である。痛いくらいの陽射しの下、別館を迂回して裏手に回る。


 先ほど窓から眺めた林が、眼前に横たわっていた。


「ほー」


 背後の別館を見上げ、僕の部屋はあの辺りだろうか、と見当をつける。


 別館は三階建ての大きな洋館で、内装こそ真新しい印象を受けたものの建物自体はかなり古いようだった。

 外壁はところどころ塗装が剥がれており、大きく張り出した軒には巨大な蜘蛛の巣が張っていた。


「ここはどれくらい前に建てられたんでしょう」


 僕がそれとなく訊くと、希愛は同じように別館を見上げて、


「うーん、かなり前だとは聞いていますけど、どれくらい昔なんでしょうね。何度か中はリフォームしたみたいですけど」


 つまりは彼女にも判らない、ということか。それほど気になることでもないので、僕は希愛を促して本館へと向かった。


 別館と本館を結ぶ道には石畳が敷かれており、頭上には左右の木々が伸ばした枝が重なり合っている。

 途中、いくつもの分かれ道が右に左に現れた。あるものは直角に、またあるものはカーブしながら、林の奥へ続いていた。


 訊くと、どうやらそれらの分かれ道はこの広大な林を巡る遊歩道となっているらしかった。


「あとで気が向いたら散歩してみてください。すっごく気持ちがいいですから」


 そっと希愛の手を握り、指を絡ませ合う。少し湿った手のひらがなんとも愛おしい。木漏れ日が落ちる道を彼女と二人でゆっくり歩き詰める。やがて左右の木々が途切れた。


 現れたのは、古めかしい煉瓦造りの西洋館だった。こちらも竣工からかなりの月日が経っていると見える。赤茶けたその全体像は迫りくるような威圧感があって、より巨大に見えた。


 玄関へ延びる石階段を上り、中に入ると、心地よい冷気が体を包んだ。空調が十分に効いているようだ。


 広い空間である。二階部分は手前側が吹き抜けになっており、豪奢なシャンデリアが吊るされていた。

 右手奥に階段があり、踊り場で直角に折れ曲がって二階へ続いている。

 吹き抜けの真下は一段低くなった石張りの床で、真横に背の高い靴箱が置かれていた。そこでスリッパに履き替えた。


「こっちです」


 希愛に手を引かれながら、東側の扉を抜ける。


 案内されたのは、長い廊下の途中にある洋間だった。

 十畳ほどの広さで、ゆったりとしたソファーが中央のガラステーブルを挟んでいる。正面――東の壁には大きな窓がはめ込まれていて、本館を取り囲む林の風景が切り取られていた。


「お母さんたちを呼んできますから、適当にくつろいでいてくださいね」


 希愛が出て行くと、僕は何とはなしに窓辺に歩み寄った。視線を移ろわせ、陽光に映える自然を堪能する。

 美しい自然の風景というのは、ただ見ているだけで心が洗われるような気がする。


 ――と、突然、緑一色の視界を何か黒いものが横切った。


 おや、と思う間もなく、左手から現れたその黒い何かは一瞬のうちに林の中へ消えていった。

 大きさからして、猫か犬だろうか。遅れて、黒い何かがやって来た方向から一人の少女が駆けてきた。


「あれは……」


 艶のある黒髪をショートに切り揃え、黒いワンピースに身を包んでいる。肌は青白く、まるで人形のようだった。

 まだ十代半ばだろう。体格は華奢で、見ようによっては小学生のようにも見える。猫のような大きな瞳をきょろきょろとさせながら、少女は足を止めた。


 先ほどの黒い何かを探しているのだろう。やがて彼女はこちらを向き、僕たちは視線を交えた。


 その目力は少女のものとは思えないほど鋭く、僕は一瞬ではあるけれど、背筋に寒いものを感じてしまった。


「ねえ」


 一歩こちらに歩み寄り、少女は言った。風鈴がちりんと鳴るような、清らかな声だった。


「シロがどっちに行ったか、あなた判る?」


 シロとは先ほどの黒い何かのことだろうか。真っ黒けなのにシロとは……


 僕は窓を開け、顔を出した。途端、暖かい外気が部屋に侵入する。


「シロって、あっちから来た黒いもののことですか?」


「そうよ。黒猫なの。逃げ出しちゃって」


 少女はまた一歩近づき、そして珍しいものを見るような目をして、


「ところで、あなたはどなた?」


「あ、申し遅れました。僕は、朝霧大望といって、希愛さんの――」


「ああ、希愛ねぇの彼氏さんね。さっきおばさんから聞いたわ。いつからいるの?」


「昨晩からです。あなたは……」


「私? 私は葉月はづきよ。大紋葉月。葉っぱの葉に月と書いて葉月よ。ふぅん、希愛姉もなかなか見る目があるわね。けっこうかっこいいじゃない」


「はあ、どうも」


 年下の少女にそう言われて、何と返したらよいものか。僕のそんな反応を楽しむように、葉月は続ける。


「ふふっ、なんだか希愛姉と似てるわね。堅っ苦しい話し方とか、アホみたいに人のよさそうなところとか」


「そうでしょうか」


 大紋家の家族構成については希愛から全く聞かされていなかった。少なくとも妹がいるという話は聞いたことがないので、青夜と同じく希愛の親族の一人なのだろう。

 それにしても、親族がこうやって一か所に集まって生活をしているというのは、現代ではのではないか、とどうでもいいことを思ったりした。


「ところで、シロは追わなくても? あっちの方へ行きましたよ」


 黒猫が向かった先を指で示すと、葉月は思い出したように目を丸くして、


「そうだった。ありがとう、大望さん。また後でね」


 ワンピースの裾を振り乱しながら、葉月は林の中へ消えていった。




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