第五章 止まらぬ凶行
第30話 第二の犠牲者
1
西向きの窓の前に立ち、大紋源二はゆっくりとカーテンを引いた。
重たい鼠色の空、降り止まぬ豪雨、そして風に揺さぶられ今にも倒れそうになる木々。まるで今の彼の心境をそのまま描いたような悲惨な風景だ。
土砂崩れで道が通行不可能になったのは不幸中の幸いだった。
万が一、警察にあの地下牢のことが知れれば、そこを発端に今まで隠蔽してきた大紋家の過去の事件が暴かれてしまうだろう。そうなれば、今までの苦労が水泡に帰り、文字通り全てが失われる。
英生は本当に余計なことをしてくれた。
元々、英生は隠蔽に反対の立場だったが、まさか独断であそこまで動くとは思っていなかった。
十年ぶりの事件に冷静さを失ったのだろうが、あの様子だと、道が復旧するか通信機能が回復すれば、再び警察を呼ぼうと試みる可能性がある。
一応、全員の携帯電話は回収したが、後ほどまた釘を刺しておかなくては。
時刻は午後一時。
本館二階、源二の書斎である。
しかし、英生の気持ちも理解できないわけではない。
一般的な倫理観で考えれば、この家が異常であることは火を見るよりも明らかだ。だからこそ、一般的な倫理観を持つ外部の人間をこの家に招くわけにはいかない。
大紋家当主という立場上、源二にはこの「家」を守る責務がある。そういった意味では、彼は極めて保守的な人間だった。
大紋家に生まれなかったら。
何度そう考えたことだろう。
源十郎の血さえ引かなければ、源二はもっと幸せな人生を歩めたに違いない。大紋グループという大企業の頂点に君臨し、富、権力そして名誉を得てなお、源二は怯えていた。いつ発症するかも判らぬ、悪魔の病気に。
彼はこれまでの長い生涯を怯えながら生きてきたのである。
源十郎の代以降、大紋家では幾度となく殺人及び殺人未遂事件が起きた。
当時家の全権を握っていた源十郎の意向でそれらの事件が外部に知れ渡ることはなかったものの、この家から「血の匂い」が消えることはなかった。
源十郎の死後、彼の悪魔のような所業が明るみに出たことで、源二は全ての元凶が彼であることを理解した。
今まで事件を起こしてきたのは決まって源十郎の血を引く者ばかりだった。源十郎の妾や使用人たちは犠牲者となることはあっても、決して殺人を犯すことはなかった。
父――清も自分が生まれた年に人を殺している。
大紋家の家系図に現れた一点の黒星は、それ以降の全ての系図を黒く塗りつぶしてしまった。
そして十年前に兄が目覚め、次男坊である雪桃が殺された。
兄――太一を取り押さえたのは源二だった。返り血にまみれ、ターゲットを求めて徘徊していた太一を捕らえた時、源二ははっきりとこの目で見た。
源二の腕の中で暴れながらも、太一は安堵の表情を浮かべていたのだ。自分の凶行を止めてくれたことに対する心からの安堵を。
太一もまた被害者なのである。
彼は幼い頃から虫を殺すのも躊躇していたほど心優しかった。だから、兄への怒りは全くと言っていいほど感じなかった。
怒りの矛先は、そんな兄を殺人鬼へと変貌させ、望まない殺人を行わせた源十郎だけに向いていた。
源十郎の、悪魔の血がこの体に流れている以上、自分もいつか同じように人を殺してしまうかもしれない。愛する家族の命を、この手で……
2
「私がこの家の秘密を知ったのは、十歳の時でした。太一おじさんが皆を殺して回った、あの事件の後、お父さんと源二おじさんに呼ばれて、曾祖父の源十郎から続くこの家の宿命について聞かされました……」
午後二時半。別館二階のラウンジである。
静まり返った無人のカウンターに視線を投げると、とたんに胸が締め付けられる。
昨日はあの中に茜がいて、皆に笑顔を振りまきながら飲み物を作っていた。
昨日まで生きていた人間の死。
その非現実的な喪失感は、確実に僕の心をえぐっていた。出会って間もない僕でさえそうなのだから、大紋家の人々が受けた心の傷は計り知れない。
ソファーに浅く座り、顔を下げたまま、希愛はぽつぽつと語った。まるで懺悔をするように。
「最初は何を言っているのか理解ができなかった。自分の家で殺人事件が起きた直後だったから、ショックで冷静さを欠いていたし、まだあの時は子供だったから、悪魔の血がどうとか言われても、まるでピンときませんでした」
僕は希愛の正面に腰を据え、無言で彼女の言葉を聞いていた。
「源十郎という人の名前さえ、その時初めて知ったんです。殺人衝動が遺伝するなんて、なんて馬鹿馬鹿しいんだろうって、子供ながらに思いました。でも――」希愛は右手で目元を拭って「それを信じないと、優しかった太一おじさんがあんなふうになって人を殺して回ったという……どうしようもない事実との折り合いがつかなかったんです」
――あんなふうに。
太一の人格がどのように変貌し、彼を殺人に駆り立てたのかは当事者でない僕には判らない。ただ一つ言えるのは、十年前、大紋太一が七人の人間を殺したということだけだ。
地下牢で受けた太一の印象は、つかみどころのなさそうな点を除けば普通の人間と変わらなかった。
血がべっとりとついた刃物を片手に、大紋の屋敷を徘徊する太一。鳴りやまぬ悲鳴をBGMに、彼は次なる獲物を求めて歩き出す。そんな恐ろしい情景が脳裏に浮かんだ。
「こんなことに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。家のことは、いつかは打ち明けなくちゃって思ってて、でも嫌われたらどうしようって……結局こういう形で伝えることになってしまいました……ごめんなさい」
「希愛さん」
「ドン引きですよね。人殺しの一族からまた人殺しが出て、それを隠蔽するために監禁という犯罪に手を染めて……そして私も人殺しの血を受け継いでいるです」
「君がどうこうしたわけではないでしょう。はっきり言って、隠していた内容にはショックを受けましたけど、僕の希愛さんに対する気持ちは一切変わりません」
「私の中の悪魔がいつか目覚めて、大望くんを殺しちゃうかもしれないんですよ」
言って、希愛は自嘲気味に笑う。
「希愛さんに殺されるなら本望ですよ。いいですか、何があろうとも、僕は一生希愛さんのそばにいます。悪魔の血とか、殺人鬼の末裔とか、そんなことは僕にとってどうでもいいんです。あなたと一緒にいることができればそれでいい。だから、これでこの話はおしまいにしましょう」
歯が浮くようなクサイ台詞だとは自分でも思うが、これが偽りのない僕の本心だった。彼女への想いは今までと変わらない。
「でも」
「おしまいと言ったらおしまいです」
その時、どたどたと階段を踏み鳴らす足音が聞こえてきた。僕たちは一瞬顔を見合わせた後、階段の方へ眼をやった。まもなくして、息を切らした青夜が現れた。
「希愛、ここにいたか。大望くんも一緒だね」
「青夜兄さん、どうしましたか」
希愛が訝しげな視線を送るのも当然で、青夜は頭から足のつま先までびしょ濡れだった。
おそらくこの雨の中、傘もささずに本館から走ってきたのだろう。ついさっき着替えたばかりだというのに。
眉間に深い溝を刻み、荒い呼吸を繰り返す青夜の姿は、化け物の棲む館から命からがら逃げ出してきた脱走者のように思われた。
何かがあったのだ。
僕は直感する。
尋常でない青夜の様子に、希愛も何かを感じ取ったようで、ごくりと生唾を飲んで喉を鳴らした。
空気が緊張を孕み始めた。
「いいかい、落ち着いて聞いてくれ」
「もしや……また誰かが」
「英生おじさんが殺された」
一瞬の静寂の後、希愛の悲鳴がラウンジに響いた。
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