第31話  順応

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 本館二階のこの部屋は、英生の書斎だそうだ。


 壁には木製の古い書棚が並び、部屋の奥には漆塗りのロッキングチェアが佇んでいる。その背後にはカーテンが半分ほど空いた窓があり、雨に打たれる木々の様子が望めた。


 入ってすぐのところにアンティーク調のテーブルセットが設えられている。


 英生は、そのテーブルと椅子の間で死んでいた。


 英生の骸に寄り添い、涙を流す希愛。その背後に佇み、何やら呆然としている黒音。

 青夜は室内をせわしなく歩き回っており、僕の横では河崎が身を縮めて何やらぶつぶつと言っている。


 混乱。


 さらなる惨劇は、大紋家にさらなる混乱をもたらした。


 希愛の悲痛な嗚咽に胸を痛めながら、僕は義理の父となるはずだった男の亡骸に目を落とす。

 大きく倒れた椅子とテーブルの間に、頭を戸口に向けて英生は倒れている。


 乱れた頭髪は血で赤く染まり、左の側頭部に生々しい傷跡が見受けられた。その場所に致命傷を受けたのは明らかだった。

 うつぶせになって倒れているため死に顔は見えない。右手は真横に投げ出され、左手はL字に曲げられ、頭の斜め横に位置している。その辺りは傷痕からの流血で血溜まりができていた。


 自分でも不思議なくらい冷静でいられたのは、きっとまだ実感が湧かないからだろう。

 ついさっきまで生きていた英生があっけなく殺されてしまったという事実に、僕はリアリティを感じることができないでいた。

 だからこれはそう、冷静でいるというよりも、放心しているだけなのかもしれない。


「……あなた、そんな」


 黒音のほっそりとした頬に幾筋もの涙が伝う。


「お父さん、お父さん」


 希愛は動かない父の体を何度も揺さぶり続ける。


 僕はどうしていいか判らず、その場に立ち尽くすのみだった。


「改めて確認します。黒音おばさんが第一発見者ということでいいんですよね」


 窓の前で足を止め、青夜は振り返る。


「え、ええ」


 希愛と比べて、黒音の方は気を保てているようだ。細い声を震わせながら、黒音が事件発覚の経緯を語る。


「英生さんの姿が見えないから、私、探していたの。お昼に皆で小ホールに集まった後、英生さんは一人でどこかに行ってしまったから」


「家族会議が終わった後、ずっと英生おじさんを探していたんですか?」


「いえ、私はあの後、すぐに大和と一緒に美空さんの部屋に行ったわ。彼女が心配だったから」


「美空伯母さんは目を覚ましていましたか?」


「いいえ、ぐっすり寝ていましたよ。それで、看病していた鳥谷さんとお話をしながら美空さんが起きるのを待っていたんですけど、結局起きなかったので、戻ってきたんです」


「美空伯母さんの部屋には何時から何時まで?」


「小ホールで解散したのが十二時半くらいだったから、その後すぐに美空さんの部屋に行って……正確なことは言えないけど、一時間半くらいはいたんじゃないかしら。それから一人でいるのが不安だから英生さんを探し歩いていたら、英生さんは――」


「この書斎で殺されていた、と。それから?」


 まるで刑事のように、青夜は詰問を繰り返す。


「助けを呼ぼうと思っても、恐怖のあまり体が動かなくって、声を出すのが精いっぱいだったわ」


 両肘を抱いて、黒音は英生の死体から視線を移す。


「そう、そしてその悲鳴に気づいて僕と河崎さんが駆け付けたのがだいたい十五分前……その場を河崎さんに任せて、僕は別館に向かった。そして希愛と大望くんを引き連れて、今に至るわけだ」


 青夜と黒音の話でおおよその流れは判った。


 僕の記憶が確かなら、小ホールでの会合が終わったのは十二時半頃。

 現在の時刻は二時三十三分だから、その十五分前となると黒音が遺体を発見したのは二時十五分前後と考えられる。


 この約一時間四十五分の間で、事件は起こったのだ。


「希愛、黒音おばさんも、一度ここから離れましょう。河崎さん、二人を連れて食堂に行ってください。希愛、立てるか」


「はい」


 黒音が付き添いながら、危なっかしい足取りで希愛が出ていく。その後を追おうとした僕の肩を、青夜が掴んだ。

 その力が思いのほか強く、僕はうっすらと恐怖を覚えた。


「大望くん、君はここに残ってほしい」


「ど、どうしてですか」


「君は親父の指示についてどう思う? 率直な意見を聞きたい」


「どう思うって、それは……」


 指示とはつまり、現行犯で犯人を捕まえる、という源二の無謀な作戦のことである。

 死者が出ることを前提としたこの策はあまりにも常軌を逸しているが、捜査当局への通報を禁じられ、土砂崩れのため山を下りることもできないこの状況では、それ以外に手がないのもたしかである。


 が――


「正直に言ってしまえば、ふざけてるな、と」


「そうだね。ふざけている。一般的な感覚で言えばそれが正しいよ。ただ、ここは大紋家で、俺たちはこの家の秘密を世間に知られるわけにもいかない。しかし、目覚めた者は必ず捕まえなくてはならない。そのジレンマの末の愚策だね」


「しかし、こうして新しい殺人が起きてしまっています。源二さんの策は機能していません」


 そもそも現行犯で犯人を捕まえるというのが無理な話なのだ。いつどこで殺人が起きるのかなんて、予測のしようがないのだから。


「親父の決定を覆すことはできないし、家の存続が最優先だという考えには俺も賛成だ。警察は頼れない。だからね、俺たちにできることといったら、やはりこれしかないんだ」


 一呼吸おいて、青夜は続ける。


「俺たちで事件を解決し、犯人を捕まえる。大望くん、君は唯一外部からやってきた人間だ。だと俺は考えている。だから君は、100パーセント信頼できる人間だ。協力してくれるね?」


「それはもちろん」


 僕は犯人ではない。それは僕自身がはっきり理解している事柄で、唯一正しいと胸を張って提供できる情報でもある。


「ありがとう。さて、さっそくだが――」青夜はテーブルの端に目を向けて「検討しておくべき事柄がいくつかある」


 彼の視線を追うと、生々しいものが目に入り、僕は顔を曇らせる。血にまみれたそれが、英生の命を奪ったことに疑いの余地はなかった。


 それは置時計だった。


 天然木で作られた縦長の置時計が、無造作に卓上に転がっていた。はめ込まれた文字盤は二時三十九分を示しており、狂いなく動いていることが判る。


 底を中心に血がべっとりと付着していた。見たところ重みもありそうだ。これで思い切り殴打されてはひとたまりもないだろう。


「うっ……これが、凶器なんですね」


 人の命を奪った物体と、それによって命を奪われた人。

 その両方を前にして、どうして発狂せず平静を保てているのか、自分でも不思議だった。

 僕は元々ホラーやスプラッター映画などは大の苦手だし、グロテスクなものはたとえ作り物でも目にしたくない。そんな軟弱な人間なのだ。


 異常な状況に、自分が順応しているのが判る。そしてそれが恐怖でもあった。


「だろうな。これは元々この部屋の――あそこにあったものだ」


 青夜が戸口の右手の隅にある棚を指し示す。


 あまり掃除をしないのか、棚は薄く埃が積もっているが、注意深く観察するとある一か所だけ、掃き清めたかのように埃が全くないのが見て取れた。


 なるほど、犯人はここに置かれていた時計を凶器として選んだわけだ。となると、犯人は凶器を調したわけで、今回の殺人もな殺人であることを暗示している。


「この時計はね、英生おじさんと黒音おばさんの結婚記念日に俺が送ったものなんだよ。三年くらい前の五月だったかな。ま、そんなことはどうでもいいが」


 そう言って、青夜は時計を素手で持ち上げる。自分の指紋が付着することなど全く気にも留めない。

 いくら警察の介入がなく、自分たちで事件を解決しなくてはならないとはいえ、そうほいほいと殺人現場の物に触れる勇気は僕にはない。彼は角度を変えながら時計の観察を続ける。


「ここの角の辺りが若干歪んでいるな。血の跳ね返り方から見ても、やはりこいつが凶器で間違いないな。想像できるストーリーはこうだろう。英生おじさんの書斎を訪ねてきた犯人は突然殺人衝動に襲われ、手近にあった置時計を手に取り、背後から英生おじさんを殴りつけた。室内に争った形跡はないから、英生おじさんに殺意を気づかれることなく犯行に及んだと推測できる。たぶん部屋に入ってすぐの犯行だろう」


 悲しそうな色を浮かべて、青夜は息をつく。それから視線を足元に移して、


「大望くん、見たまえ」


 彼の足元に広がっているのは、英生の頭から流れできた血溜まりだった。半乾きの、薄く広がった血。見ているだけで悪心がこみ上げてきそうだ。


「ここだ。これを君はどう思う?」


「どう思うって、僕はそういうの苦手なんですよ」


「いいから見ろって。これだ。こいつだよ」


 青夜はしゃがみ込んでを示した。




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