第35話 トクベツな存在
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尿意を感じて、僕はそろそろと廊下に出た。アイスコーヒーを飲みすぎたせいかもしれない。
用を足してトイレを出ると、廊下の角の部屋から誰かが出てくるのが見えた。
葉月だ。
向こうも僕に気づいたようで、ぱたぱたと駆け寄ってきた。とっさに僕は後ずさった。
「嫌だわ。大望さん、そんなに警戒しないでよ」
「警戒? してませんよ?」
余裕を持って僕は答える。
「嘘」
「嘘じゃないですよ?」
「じゃあなんでちょっとずつ後ろに下がってるのよ」
「ぐっ」
大紋家の正式な血筋である葉月は有力な容疑者の一人である。非力そうに見える彼女が二度の殺人を犯したとは到底思えないが、年下の少女相手に僕が身構えてしまったのは事実だ。
「ハルナちゃん、もう二人も殺されている。一人でいるのは危ないよ。みんなと一緒にいた方がいい」
「大望さんも一人だわ」
「僕はトイレに来ただけです」
「じゃあ」と言って葉月は僕の手を引いた。
「大望さんが一緒なら問題ないわね」
「は、ハルナちゃん?」
「私の部屋へ来ない? それとも殺人鬼が徘徊してるのに、女の子を一人ぼっちにさせておくつもりかしら」
僕の返事も聞かずに葉月はぐいぐいと僕の手を引っ張った。その力は思いのほか強く、僕は散歩中の犬のように彼女についていくしかなかった。
そういえば、と思い出す。
先ほど英生の書斎の外で会った時、葉月は「面白くなってきたわね」と言っていた。あれはいったいどういう心境で口にしたのだろう。親族が殺されたというのに、彼女は平然としていたように見えた。
北東の角部屋に強引に押し込まれる。
「好きにかけていいわよ」
「はあ」
なるほど、部屋主の中二病的趣味がよく反映されていて、まるで魔法少女の隠れ家のようだった。
黒を基調とした部屋である。
広さは十五畳ほど。壁紙は黒地に金色の紋様が入った、いかにも中二心をくすぐるものが使われている。
床は板張りで、埃一つない。入ってすぐに薄暗い印象を受けたが、どうやら照明を弱く設定しているようだ。
ベッドはレースカーテン付きの豪華な代物で、黒と赤という毒々しい配色をしていた。
部屋の中央に置かれている円形の木製テーブルには黒いクロスがかけられており、その上にシロという名の黒猫が寝転がっていた。
室内には情欲を誘うような甘ったるい匂いが充満しており、これが十四歳の少女の部屋か、などと淫らなことを考えてしまう僕がいた。
ももをぎゅっとつねり、邪念を振り払う。僕には希愛がいるのに、何を考えているのだ。
葉月はレースカーテンを引いてベッドに腰を下ろした。
好きにかけてもいいと言われても、腰を下ろせる場所は一つしかなかった。
部屋の隅に置かれていた黒いハート形のスツールを引き寄せ、そこに座った。その拍子にシロが飛び跳ねるように起き上がり、葉月の膝の上に飛び乗った。
「いい子ね」
黒猫を抱く美少女。
その光景は名画を切り取ったようで、なかなか様になっている。
淡い照明に照らされた黒髪。白い頬にはほんのり朱が差している。丈の短いスカートから覗く、細長い生足が艶めかしい。
全体的に線が細く、力強く抱きしめれば折れてしまいそうだ。僕は考える。この華奢な体で大人を二人も殺せるだろうか。
大紋の直系である以上、葉月を容疑の枠から外すことはできない。しかし、こんな年頃の少女がまさか、といまだに考えてしまう僕がいた。
「大望さんは、誰が目覚めたと思う?」
シロに視線を落としながら、葉月は言う。
「私、希愛姉、青兄、大和くんにお父様。誰が今回目覚めたのかしら。それとも太一伯父様があの地下牢獄から逃げ出したのかも。ねぇ、大望さんはどう思う?」
「さあ、まだ判りません」
「すごいと思わない?」
「何がですか?」
「二人も殺した人間が、今この家の中にいるのよ」
言って、葉月はくすくすと笑う。それは心の底からこの状況を楽しんでいるように見えた。彼女はいったい、何を考えているのだろう。
「いるの。この家の中に、そいつは確実にいる。平静を装っているけれど、人を殺したくってたまらない殺人鬼がまぎれてるの。うふふ」
「ハルナちゃん、さっき君は、面白くなってきた、とそう言いましたね」
「言ったわ」
そのあまりに自然な調子に僕は思わず声を荒げた。
「罪のない人間が、二人も殺されたんですよ。これは空想の出来事じゃない。現実なんです。それなのに面白いだなんて――」
「そう思うのはおかしい?」
葉月は顔を上げ、じっと僕を見据えた。シロが彼女の膝から飛び降り、床に寝転がる。
「おかしいです」
「そうね、それが普通の感覚よね」
「自分は普通じゃないとでも?」
「そうよ、私は平穏な人生を歩んできたあなたたちと違って普通じゃないもの。異常で、特別で、孤独な悪魔の子」
見下すような声色で葉月は続ける。
「私の体には殺人鬼の血が流れているの。人を殺さずにはいられない
陶酔しきった葉月を前にして、僕は言葉を失っていた。
この家で一番源十郎の気質を受け継いでいるのは、もしかしたら葉月なのかもしれない。
彼女の口調や、表情の微細な変化を見るに嘘を言っているようでも、話を誇張しているようでもなかった。彼女は本心からこの殺人事件を楽しんでいるのだ。
「いつか、私も人を殺してしまうかもしれない。そうしたら、ずっと一人ぼっちで暗くて狭い地下牢獄に閉じ込められてしまう。嫌。怖い。そんな恐怖を覚えたこと、ある?」
あるわけない。そう言い返そうとしたけれど、僕の口は動かなかった。
僕も普通ではない人生を歩んできたと自負しているが、葉月が生まれ育った環境は文字通り普通ではない。改めてそのことを意識した。
この家では、殺人が身近な概念として存在しているのだ。彼女の場合、それが中二病と悪い具合にマッチしてしまった。
中二病特有の、自身を特別な存在だと思い込み、他者を何も考えていない愚者だと見下す思考。
たいていは越えられない困難や実らない努力などの現実的な壁にぶつかり、現実を知ることで治っていくものだ。
が、彼女の場合、本当に
ただ、一見、余裕があるふうでも中身はまだ中学生の子供。彼女にしか判らない苦悩があるはずで……そこまで勘繰ってしまうのは、僕の傲慢か。
「ハルナちゃん……」
「ところで、私のアリバイは調べなくていいの?」
平然と葉月は言った。
「青兄と一緒に犯人を捜してるんでしょ?」
「廊下で聞いていたんですね」
僕と青夜が書斎で見分をしている最中、彼女は廊下で聞き耳を立てていたのだろう。先ほどの冷たい視線から一転、好奇心に満ち満ちた目で葉月は僕を見つめる。その表情の移ろいが醸し出す妙な色気に、僕の心臓は高鳴った。
「それと、ダイイングメッセージについてもね。ダイイングメッセージなんて、こんな言葉、まさか自分が実際に使う機会が来るなんて思ってもなかったわ」
「僕もです」
「探偵ごっこも悪くないわね。私、こう見えて推理小説とか読むのよ。さ、今どこまで判ってるのか、話して」
仕方なしに、僕はここまで出そろった情報と把握している限りの事件の概要を語った。血生臭い事件について話すのはあまり気持ちのいいことではなかったが、葉月は興味津々といった様子で聞き入っていた。
「ふぅん、青兄も希愛姉も完璧なアリバイはないわけね」
「ええ。お義母さんにも、河崎さんにも」
「正直そっちの二人は関係ないでしょ。源十郎の血は引いてないんだから。じゃあ、私のアリバイも教えておこうかしら。家族会議が終わった後ね、私お風呂に入ってたの」
「お風呂、ですか」
予想外の発言に、僕は拍子抜けしてしまった。
「緊張して変な汗かいちゃったから。おかげでさっぱりしたわ。
わざとらしく足を組み替え、葉月は後ろにのけぞった。
「どれくらいの間、入っていたんですか?」
「えっち」
「いや、正確な時刻を訊かなければアリバイ調べの意味がないですから」
「さぁ、どれくらいだったかしら。多分三十分くらいは浸かってたと思うけど。その後、体と髪も洗って、また浸かって……まあ一時間くらいじゃないかしら」
「それで、その後は?」
「この部屋に戻ってきて、シロと遊んだり、勉強したりしてた」
殺人鬼が潜んでいるというのに、呑気なものだ。いや、もしかするとこの葉月という少女は、自分に危害が及ぶ可能性を考慮していないのかもしれない。
悲劇のヒロインを演じる自分に酔うばかりで、事件に関しては無意識のうちに傍観的な見方をしているのだ。
自分が殺されることは決してない、と。
「それで、いつだったかしら……二時過ぎくらいに黒音おばさんの声が聞こえて、ああ、今度は黒音おばさんが殺されちゃったのねって思ったの」
遠いところに雷が落ちたようだ。ごろごろと、空の唸り声が聞こえる。
「でも違った。後で見に行ったら、黒音おばさんと希愛姉と河崎さんが書斎から出てくるとこだったの。あれ、じゃあ誰が殺されたのかしらって思ってこっそり中を覗いたら、英生おじさんが死んでたってわけよ」
「つまり、葉月ちゃ……ハルナちゃんにもアリバイは認められない、とこういうわけですね」
「そういうわけよ。さて、ダイイングメッセージについて考えましょうか」
葉月はそう言って、足元で転がっていたシロを再び抱き上げた。
「抗えぬ死を宣告された者が、残された者にわずかでも希望を繋ぐべく残した暗号。それがダイイングメッセージ。12、ね。12、1と2.1たす2は3」
「そう見える、というだけで、12と確定したわけではありませんが……書いている最中にこと切れてしまったのかもしれませんし」
そして先ほど皆で検討した答えについても説明すると、葉月は途端に顔をしかめ、突き放すように言う。
「書きかけの可能性を排除できないのなら、ダイイングメッセージについて考察するのは時間の無駄でしかないわ。犯人を直接意味するものでなければ、ダイイングメッセージとしての意味をなさないもの。未完成の暗号についていくら考えたところで、答えなんて出るはずがないじゃない」
「それはそうですが……」
「いい? 言い切れるのは、英生おじさんの残したメッセージは犯人を直接告発するものだということよ。十二という数字で表現できる人間がこの家にいないのなら、それは未完成のダイイングメッセージということになるわ。もしくは……」
再び雷が鳴り響き、シロが葉月の膝の上から飛び降りた。黒い尾を振りながら、シロは東側の壁一面を埋めるカーテンへと歩き出す。にゃあ、と一声啼くと、その黒いカーテンの内側へ潜り込んだ。
「外へ出たがってるみたいですね」
「ダメよ、シロ。ほぉら、外は大嵐なんだから」
葉月はカーテンを全開にする。
東の壁は一面がガラス戸になっていて外にこざっぱりとしたテラスが造られていた。嵐のせいで木製のテーブルは倒れ、二脚の椅子はそれぞれてんで違う方向に転がっている。
大和の話ではシロはしょっちゅう脱走するそうだが、ここから逃げ出しているのかもしれない。
「ダメったら」
「にゃあ」
「……もしくは?」
「あれは12じゃない」
シロがかりかりとガラスをかじる音が、妙に耳に残った
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