第2話  運命か、それとも

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 僕、朝霧あさぎり大望が大紋希愛と出会ったのは、今からおよそ一年前、二〇一七年の夏だった。


 あの運命の日のことは、一年経った今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。

 道往く人々の顔も、朝見たニュース番組の内容も、その日に食べた食事やその料金まで。それほど、希愛との出会いは僕の人生にとって大きなものだった。



 ――一年前の八月一日、静岡県のT**大学に入って初めての前期試験から解放された僕は、一人でぶらぶらと街を散策していた。

 根を詰めて勉強していた反動からか、体は疲れているのに妙にハイな気分で、とにかく動きたくてたまらなかった。


 どこへ行くでもなく、朝から足の向くまま雑貨屋や古本屋をひやかしてまわった。バスや電車を使って、普段の活動範囲から外れたところにも積極的に足を運んでみた。

 目に映る全てが新鮮で、飲み慣れた自販機の缶コーヒーさえもいつもより美味しく感じた。


 正午前、さすがに歩き疲れた僕は時計台のある広場に立ち寄った。よく手入れがされた植え込みに、多くの人が目を和ませている。

 隅の一角には遊具があり、子供たちが遊んでいた。夏の活気の中にあって、ここだけはゆったりと時間が流れているようだった。


 五メートルは優にあろう時計台の足元は円形のベンチになっていて、幾人かが休んでいた。自分もそこで一休みしようと足を向けた時だった。



「うわっ」



 突然、風が勢いよく時計台の方から吹いてきた。


 その突風に乗って、何かがひらひらと舞い、やがて僕の足元に落ちた。


 薄っぺらい何かだ。色合い的にどこかの木から運ばれてきた葉かと思ったのだが、見ると、手作りと思しき栞だった。

 緑地の紙に桃色の和紙で作られた桜の花びらが貼り付けられている。


 拾い上げ、その出来の良さに感心していると、その栞越しにこちらへ走ってくる女性が目に入った。


「すいませーん」


 長い栗色の髪を揺らしながらぱたぱたと駆け寄ってくる彼女。その姿を一目見て、僕は全身に電流が走ったような感覚に襲われた。


 遅れて、何かとてつもない想いがこみ上げてきた。心臓が痛いほど激しく脈打ち、息が荒くなる。体が固まってしまったように動かなくなり、このまま体が爆発してしまうのではないか、と本気でそう思った。


 ……要は一目惚れだった。


 今までの人生の中で女の子を好きになることは多々あったが、どれも普段の付き合いの延長線上に芽生えた恋だった。初めて出会った女性に対してここまで強く心を惹かれてしまうことは、いまだかつてない経験だったのである。


 運命という言葉が脳裏に浮かんだ。


「すいません、それ、私の……」


 驚くべきことに、僕の前で足を止めた彼女もまた、体を硬直させ、荒い呼吸を繰り返しているのだ。

 彼女が走った距離は息が乱れるほどではないはずなのに。僕を見つめるその目には、とろけたような光が宿っていた。


 僕たちは互いを見つめ合ったまま、無言の時間を過ごした。

 それは永遠のようでもあったし、一瞬にも満たない時間のようでもあった。

 時空という概念を超えて、心が通じ合ったような心地よい感覚が僕を満たしていた。


「あ、あの、これ」


 栞を差し出すと、彼女は俯きながらそれを受け取った。


「拾っていただいて、ありがとうございます」


「急な風でしたね」


「……ええ」


「それ、手作りなんですか?」


「はい。趣味なんです。その、自分で栞を作るの――」


「好きです」


 彼女の言葉を遮るようにして、僕は言った。


「へ? えっと、なんと?」


 彼女は困惑を表情に出したまま、大きなたれ気味の目を僕に向けていた。


「えっと、あれ、今僕なんて言いました?」


「……」


「……」


 こみ上げてきた想いがそのまま言葉として口から溢れてしまった。どうしてあの場でそんなことを口にしてしまったのか。僕はどちらかというと、恋愛は奥手な方だった。


 今になって冷静に思い返してみると、この機会を逃したら彼女と二度と会えなくなるかも、という危機意識が働いたのかもしれない。

 連絡先を聞けばそれですむではないか、というもっともな意見はさておき、当時はそんなことまで考える余裕はなく、自分の言葉に自分で混乱するばかりだった。



「あ、その、すいません。何言ってるんだろうな、僕」



 全身からどっと汗が吹き出し、緊張で目の前が真っ白になる。これでは夏の暑さにやられた不審者だ。恥ずかしさと熱気によって顔がこれでもかというほど熱くなり、僕は逃げるように踵を返した。


「すいません、忘れてください」


 そうして立ち去りかけた僕の手を、誰かが掴んだ。振り返ると、頬を紅潮させた彼女が両手で僕の手を掴んでいるのだった。


「あ、あの」


 通報されるのだろうか。

 近頃は声をかけただけで事案になることもあると聞く。そんな恐怖が脳裏をかすめた。しかし、彼女の口から飛び出した言葉は僕の想像をはるかに超えたものだった。


好きです。ついさっき、出会った時から」


 再び風が吹き、彼女の髪が大きく乱れた。柔らかい香りが彼女の方向から漂ってくる。


「何だか変なんです。あなたを一目見た時から、私、自分が自分でないような感じがして……私、大紋希愛といいます。お名前を聞いてもいいですか?」


 これはいったいどういうことだろう。何が起こっているのだろうか。脳がパンクしそうになるのを必死にこらえて、僕は状況を理解しようと努めた。


「冗談でしょう?」


「私、冗談は嫌いです。自分でも不思議でたまらないんですけど、私は本当にあなたのことが好きになってしまったんです」


「僕もです。僕も、あなたのことが一目で好きになってしまいました」


 緊張と困惑で喉がからからに乾いていた。落ち着いて息を整え、僕は改めて自己紹介をした。


「朝霧大望です。大きい望みと書いて、『ひろみ』と読みます」


「大望さん、素敵なお名前ですね。私は大紋希愛といいます」


「希愛さん」


 なんて素敵な名前だろう。


 僕たちは時計台の下のベンチに座り直した。聞くと、彼女も僕と同じ大学に通う一年生だという。ここにも、運命的な何かを感じ取った僕だった。


「この辺りにお住まいですか?」


 希愛は上目遣いに訊いた。


「いえ、前期試験が終わって、ちょっと開放的な気分でぶらぶらしてたんです」


「じゃあ私とおんなじですね」


 言って、希愛は優しく微笑んだ。


 僕たちは日が暮れるまで話をして、連絡先を交換した。その時、後日改めて会う約束も取り付けた。


 その日の夜、僕は全身が火照ったように熱くなり、なかなか寝付けなかった。目を閉じれば、まぶたの裏に希愛の笑顔が浮かび、それがいっそう僕の体を熱くするのだ。


 三日後、僕たちは同じ広場で待ち合わせた。約束の時刻の十五分前に到着したのだが、彼女は僕よりも早く来ていて、時計台の下で本を読んで待っていた。


「希愛さんは、本を読むのが好きなんですね」


 そう僕が言うと、希愛は微笑みながら、


「主人公になりきって色んな人生を楽しむことができるでしょう」


 と答えた。


 希愛は裏表のない、この時代に珍しいすれたところのない子だった。言葉遣いも丁寧で、他者を尊重しながら会話をしているということがよく判った。

 栞を手作りするほどの読書家で、暇さえあればよく文庫本を開いていた。


「どんな本がお好きなんですか?」


「特にこれ! といったジャンルはありません。恋愛小説に歴史物、冒険活劇や漫画のノベライズに伝記にエッセイ、あとは古典や推理小説なんかも……興味が湧けばなんでも読みます。ふふ、なんだか雑食みたいですね。大望さんは読書はお好きですか?」


「いやあ、僕はもっぱら漫画ばかり読んでますよ」


 希愛は完全なインドア派かといえばそうではなく、どちらかというと活動的な子だった。

 緑の多い場所を散歩したり、そういった場所で読書をするのが主な休日の過ごし方らしく、僕らが出会ったこの時計台の広場も、彼女のお気に入りスポットの一つのようであった。


「外の空気を吸うのが好きなんです。実家が山奥にあるので、自然が多い場所は落ち着きます。大望さんの趣味はなんですか?」


「そうですね、しいて言うなら……食べること、ですかね」


「あら、じゃあ今日は大望さんのおすすめのお店を紹介してもらおうかしら」


 太陽のような笑顔を見せながら、希愛ははつらつと言った。


 それから僕たちは(学部は違ったが)大学生活でも極力同じ時間を共有するよう努めた。希愛と共に過ごす時間は何をしていても楽しくて、逆に彼女がいないと何をしていても退屈に感じてしまう。


 出会って二週間も経つ頃には、お互いの部屋を行き来し、同じ夜を過ごすまでになった。小さな火種が巨大な炎となって燃え盛るように、僕たちの仲は急速に進展していったのである。


 希愛の全てが愛おしい。希愛のためなら、たとえ死んでも構わない。


 顔、性格、体の相性といった、男女の交際における重要な要素を超越した、本能に直接訴えかけるような不思議な魅力が、彼女にはあったのだ。


 ここまで一人の女性を愛することは僕の人生において初めての経験だったし、これほどまでに僕を愛してくれる女性にこれから先巡り合う自信はなかった。


 まだ学生の身分であるにも関わらず、人生のパートナーは希愛以外には考えられない、というところまで僕の想いは成長してしまっていた。それは彼女も同様だったらしく、卒業と同時に婚姻届けを出す約束まで交わした。


 出会って半年後に同棲を始め、互いの両親にも紹介をしあった。この時判ったことだが、希愛は大紋家という資産家の娘だった。


 大紋家について詳しいことは知らないが、どうやら長野県を中心に拠点を構え、様々な事業を手掛けているらしい。彼女の実家――大紋の本邸も長野県の山中にあり、地元では有名なようだった。


 勘違いして欲しくないのだが、希愛が良家のお嬢様だからといって、不純な下心を僕が持つことはない。


 僕は希愛という女性を純粋に愛しているのだ。


 ありえないことだが、例え彼女の実家が多大な借金を背負っていようが、彼女が人殺しの娘だろうが、また彼女自身が殺人鬼であろうが、僕は全てを受け止め、希愛と添い遂げる覚悟がある。


 そしてそれはきっと、彼女も同じはずだ。



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