第10話 消化不良
1
驚いて振り向くと、そこには青夜の姿があった。彼が僕の肩を叩いたのだ。
「覗きはよくないなぁ。もしかして君は、そっちの趣味もあるのかい?」
「いえ、そういうわけでは――」
「ははっ、冗談だよ。すまないね、ちょっと便所に行ってたんだ。それで何の用だい」
青夜は今朝と同じ格好だった。目の下には相変わらずくまがある。
「気になることが、いくつかありまして」
「ふむ。それはつまり、この家に関することかな。当たりだろう?」
僕は黙って頷いた。
青夜は小さくため息をつき、困ったように苦笑した。
その様子から、彼は僕が何を訊きたいのかの見当がついており、なおかつそれを歓迎していないことがはっきり判る。しかし、ここで退くわけにはいかない。
「お願いします」
「……やれやれ」
青夜は廊下を振り返り、誰もいないことを確認すると、顎をしゃくるようにして自分の部屋を示した。
「ここじゃあなんだから、中で話そうか」
「は、はい」
青夜の後について部屋に入る。
「人を招く習慣がないものでね、散らかっているが……そこの椅子にでも座ってくれ」
紙が山積みになった机の椅子を手で示し、青夜はベッドの縁に腰を下ろした。
床の段ボールを避けながら、僕は指示された椅子に座る。
この時気づいたが、机の上に重ねて置かれていたのは400字詰めの原稿用紙だった。
「気になるかい? いいよ、見ても」
青夜はあっさり言って、煙草に火を点けた。
「論文ですか?」
「見れば判るさ」
たしか、彼は遺伝学と犯罪心理学が専門のようなことを言っていた。
僕はその分野に明るくないし、今はそれどころではないので、特に読みたいとは思わなかったのだが、見てもいいと言われて目を通さないのも失礼な気がした。
「では、失礼して」
山の上から一枚手に取り、目を落とす。それにしても、このご時世に手書きの原稿とは珍しい。濃い鉛筆書きで、かなりくせのある字だった。
凍えるような冬空。
身を切るような鋭い風が、向かいから吹き付けてくる。
びゅうびゅう、びゅうびゅう。
その唸るような音に交じって、足元から硬い音が聞こえてくる。
がらがら、がらがら。
びゅうびゅう、がらがら。
がらがら、びゅうびゅう。
俺は片手に金属バットを引きずりながら、夜の街を歩いている。
丑三つ時。
人の気配は全くない。街灯のくすんだ灯りだけが、ぽつぽつと前方の闇に浮かんでいる。
がらがら、がらがら。
さて、今宵の獲物はどこにいるだろう。車一つ通らない閑散とした街。この時間帯なら、それも仕方のないことだ。
吐く息は白いが、この闇を薄めるには弱すぎる。俺は寒さに耐えながら、ターゲットを求めて夜の街を徘徊する。
がらがら、がらがら。
がらがら、がらが……
俺は足を止めた。
あれは……
夜道を一人、歩いている者がいる。こちらに向かっている。あれは……女だ!
俺は電柱の陰に隠れて、息を潜めた。
かつかつ、かつかつ。
女の足音――ヒールだろう――がどんどん大きくなる。
かつかつ、かつかつ。
びゅうびゅう、びゅうびゅう。
かつかつ、かつかつ。
かつかつ、かつかつ。
びゅうびゅう、びゅうびゅう。
かつかつ、かつか――ごん。
ごん、ごん、ごん。
――ぐしゃ。
地面に臥した女の体。砕け散った頭。跳ねた血は赤く、とても滑らかだった。そして俺は――
あまりの内容に、僕は眉をひそめて顔を上げた。幼い頃からこういう類のものは苦手だった。そんな僕を、青夜はにやにやしながら見据えている。
「これは……」
ホラー小説か、推理小説の一場面にしか思えなかった。
「青夜さんは、作家先生なのでしょうか」
「いいや、違うよ」
「では趣味で?」
「趣味、というよりかは、そうだな……俺という人間を人間としてこの世に保持するための代償……いや、そこまで高尚なものでもないな。自己満足。そう、歪な自己満足の結果なのさ」
「は、はあ」
具体性を欠いた青夜の言葉に、僕は曖昧な頷きしか返せなかった。
「まあ、いきなりこんなものを見せられても困るか。すまなかった。それじゃあ、本題に移ろうか」
言って、彼は天井に向けて紫煙を吐いた。
「で、何を訊きたいんだい? 答えられることなら、できる限り答えてあげよう」
ああ、いよいよか。僕は背筋を伸ばして、深呼吸をする。こちらを見つめる青夜の不敵な瞳に視線を合わせ、言った。
「林の中の慰霊碑のある広場。ついさっき、僕はあそこにいました」
「……」
「あの慰霊碑は、いったい何のために設置されたのですか?」
「……入ってしまったんだね、あの広場に」
「ええ」
そうして僕は、遊歩道を散策しているうちに迷ってしまい、あの広場に辿り着いた経緯を説明した。もちろん、そこで大和と出会った、という点は伏せて。
「まあ、そうか。あの遊歩道は広大だからね。初めての人間なら迷うのが当たり前だ。しかし、迷った末にあの場所に出ちまうとは、大望くんはなかなか悪運が強い。あそこにはむやみに立ち入ってはいけないというのがこの家の暗黙の了解なんだが、入ってしまったのなら仕方がない」
「すいません、知らなかったとはいえ、立ち入り禁止の場に踏み入ってしまいました」
僕が頭を下げると、青夜は穏やかな声色で、
「気にすることはないさ。厳密な意味での立ち入り禁止ではないんだから。どちらかというとそうだな、誰も近寄りたがらない、というのが正確な表現かな。さて、質問を質問で返すようだけど、慰霊碑は何のために設置されると思う?」
「それはやっぱり、不幸な出来事によって命を落とした死者の魂を慰めるためです」
「そうだ。それで正解だよ。戦争、災害、事故……要因は様々だけれど、不幸な死に方をした人間の魂を慰め、後世に形ある戒めとして残しておく。それが慰霊碑の存在意義だ。そしてこの家にあるあれも、全く同じ意味合いを持っている」
「じゃあ、あれは」
「この家で命を落とした人間の魂を慰めるため、そして、もう二度とあんな不幸が起きないように、戒めとして残してあるのさ」
そう言い放った青夜の表情はどこか寂しげな感じがして、僕に、というより自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
「……何か、事故でも?」
「すまないね、それはまだ言えない」
「どうして」という言葉を何とか飲み下す。「できる限り」答えてもらったのだから、このことに関してこれ以上踏み込んだ質問はできない。
だが、これで謎の方向性は見えてきた。
おそらく過去にこの屋敷で多くの人間が命を落とした出来事があったのだろう。事故か、自然災害か、それとも……
その内容までは今のところ見当がつかないが、大紋家が関わっているだろうという僕の予想は、決して間違いではないはずだ。
敷地内に慰霊碑という形あるものを残す、という一種の儀式的行為が、それを裏付けているではないか。
神聖な場であるからこそ、安易に立ち入ってはいけないのではないか?
「では、あの慰霊碑の裏にあった建物は?」
慰霊碑と同じ場所に建てられている、ということを念頭に置けば、墓所、と考えるのが順当だろう。
大紋家で命を落とした者たちがあの石造りの家の中で眠っているとなれば、大和の行動も説明がつく。きっと彼は、墓参りをしていたのだ。
「お墓、でしょうか」
しかし、この質問にも青夜ははっきりした答えを返してはくれなかった。憮然と首を振り、根元まで灰になった煙草をベッドサイドの灰皿に投げ捨てる。答えられない、の合図だ。
「そう焦ることはないさ」
「いつかは知る時が来る、と?」
「君が希愛と……大紋一族の仲間入りを果たせば、嫌でも知らされるだろう」
「希愛さんは全てを知っているのですか? 葉月ちゃんも、大和くんもまだ子供ですけど、彼らも?」
ようやく青夜は首を縦に振った。
「葉月と大和にはもう会ったみたいだね。そう、希愛も、葉月も、大和も、皆が承知し、それを胸に刻んで生きている」
「そう、ですか」
先ほど味わった、希愛が遠くに行ってしまったような、そんな空虚な感覚が再び僕を満たしていた。
彼女は、僕にさえ言えない秘密を抱えて今日まで生きてきたのか。どうして言えないのだろう。話したら、僕に嫌われてしまうとでも思っているのだろうか。
そんなわけないのに……
どんな事情があったとしても、僕が希愛を想う気持ちは微塵も変わらない。
「なんだか重苦しい空気になってしまったね。どうだい、大望くん。ラウンジの方にでも行かないかい?」
「はい」
僕は重い腰を上げる。
結局、謎は謎のまま僕の頭に残り、青夜との密会は消化不良に終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます