第六章  混ぜるな危険

第37話  大和の話

 1



 人は、失って初めて日常の尊さを知る。


 そんな当たり前の事実を知ったのは、僕が〈愛の家〉を出て数週間が経った頃だった。

 期待と不安に満ちた、朝霧家での新しい生活。義理とはいえ、自分を愛し、慈しんでくれる両親という存在はとてもむずがゆく、そして新鮮だった。


 血の繋がりはないけれど、いつでも優しく接してくれる父と母。


 初めて与えられた自分だけの寝室。


 学校から家に帰れば母がおやつを用意して、今日起きた出来事を嬉しそうに聞いてくれる。

 父が仕事から戻ると、三人で食卓を囲み、温かい料理をおなかいっぱい食べるのだ。

 夕食後は父と一緒にお風呂に入って、流行りの歌を口ずさみながら一日の疲れを洗い流す。そして、ふかふかのベッドの中で夢の世界へと旅立つのだ。


 そんな普通の家族の普通の生活はしかし、僕にとっては普通ではなかった。


 不自由のないその生活は、たしかに幸せなものだった。だが、それは例えるならちょっと高級なホテルに滞在しているようなもので、いくら満たされた生活を送っても、心は決して安らぐことがなかった。


 人が真に落ち着ける場所は、我が家だけだ。朝霧家の生活に不満があったわけではない。ただ、僕にとっての我が家が〈愛の家〉だったという、それだけの話なのだ。


 親と生き別れた、同じ運命を背負う兄弟たち。


 朝霧家で夜を迎えるたびに、彼らと過ごした日常が夢の中で蘇った。


 古ぼけた壁の染み、庭の隅にそびえる大きな桜の木。


 やたらと軋む二段ベッド。狭い部屋に響く子供たちの笑い声……


 生まれてすぐに施設に捨てられた僕にとって、あの小さな孤児院こそが、我が家だったのだ。

 院長が言うには、赤子だった僕が持っていたのは、大望という名前だけだったらしい。

 四月もそろそろ終わる頃、『私にはもう育てられません。大望をお願いします』と書かれた紙片と共に段ボールに入れられ、施設の門の前に放置されていたそうだ。



 2



 人間社会から隔絶された屋敷には、二人の人間の命を奪った悪魔が潜んでいる。殺人事件に自分が関わるなんて夢にも思っていなかった。しかも、一度命を奪われかけた当事者になろうとは。


「はい、たしかに私がお茶を淹れに参りました。時間もええ、たしかに一時半くらいでした。はい、はい」


 鳥谷桜子は神妙な面持ちで質問に答えていた。


 本館二階、大紋美空の寝室の隣に位置する六畳ほどの部屋である。


 葉月の部屋を後にした僕と青夜は、その足で美空の寝室へと向かった。彼女はまだベッドの中で寝息を立てており、大和と鳥谷がうつろな表情で見守っていた。

 美空の身を案じてやってきたはずの黒音と希愛の姿はなく、訊くと、つい先ほど揃って出て行ったそうだ。


 起きた美空に気づかれるとまた面倒なことになる、と青夜が言い出したため、大和と鳥谷へのアリバイ調査は隣の部屋で行われることになり、まず鳥谷が呼ばれたという次第である。


 メモ帳を片手に青夜は質問を投げかける。すでに事件の概要は黒音たちによって伝えられているようだ。


「戻ってきたのは何時頃でしたか?」


「二時前――一時五十分頃でしょうか」


「その後はずっと美空さんの部屋に?」


「はい」


 鳥谷は首が外れてしまいそうなほど力強く頷いた。つまり彼女は厨房にいた時間以外は、ずっと美空の部屋にいたということだ。今のところ他の者の証言と食い違う個所はない。


「黒音おばさんと大和がやってきた時刻は覚えていますか?」


「十二時半をいくらか回ったところかと」


「黒音おばさんが出て行ったのは?」


「二時頃だったと記憶しています。私が持ってきたお茶に少しだけ口をつけて、すぐに出て行ってしまわれました。英生さんが心配だから、と呟いておられました。でもまさかあんなことになってるなんて」


 これも黒音の証言と矛盾しない。


「黒音おばさんが退席した後、鳥谷さんは部屋を出ましたか?」


「いいえ。お手洗いにすら行っていません。黒音様と希愛お嬢様が揃ってやって来るまで、私は片時も美空様のおそばを離れませんでした」


「……なるほど。では何か不審な物音を聞いたり、おかしな行動を取っている人を見かけたりは?」


「特に、何も」


「黒音おばさんが遺体を見つけた時の悲鳴も聞こえませんでしたか?」


「はい。あの――」


 一通りの質問が終わったところで鳥谷は上目遣いに青夜を見つめた。その目つきは不審がっているようでもあり、恐怖を堪えているようでもある。いや、おそらく両方なのだろう。


「何か?」


「私たちはこれからどうなるのでしょうか」


 シンプルすぎるゆえに、落としどころの見つからないその疑問。本当に、僕たちはどうなるのだろう。これ以上犠牲者を出す前に犯人を捕まえることができるのだろうか。


 先の見えない暗闇の中に立たされている気分だ。


 一歩進んだ先が断崖かもしれない。背中に殺人鬼の凶刃が突き立てられているのかもしれない。すぐ真横に救いの縄ばしごが垂れ下がっているかもしれない。


 果たして、どの方向が正しい道のりなのか。


 僕たちは今、正しい方向を向いているのか。


 その答えは進んでみなければ判らない。


 大紋家の血統ではない鳥谷も同じ気分なのだろうと想像する。


 それに河崎の言では、彼女が大紋家での事件に巻き込まれるのはこれが初めてだそうだ。普通の神経を持った普通の人間ならば、殺人事件の渦中にいるというだけで相当な精神的苦痛を被るはずだ。


「無事に解決するのでしょうか。それともまた誰かが殺されるのでしょうか」


「これからどうなるのかは、俺にも判りません。ただ、一刻も早く犯人を捕まえるよう努力するつもりです。逃げ場がないのは犯人だって同じこと。だったら、できることをするしかない」


 それで納得したかは定かではないが(おそらくしていないだろう)、鳥谷はもう何も言わなかった。


「……」



 *



 鳥谷が退室し、大和がやってきた。


 おどおどとした足取りから、幼い心がいかに不安にさらされているかが判る。

 まだ十一歳の子供なのだから、これが当然の反応だろう。しかし、彼もまた源十郎の血を受け継ぐ大紋の人間なのだ。彼が目覚めていないという保証は、どこにもない。


「そこに座って。そんなにビクつくなよ。もう五年生だろ?」


「それ、関係ある?」


「なんだ、やけにつんけんしてるな」


「だって今度は英生おじさんが殺されたんでしょ。青夜兄さんはなんでそんな呑気にできるの?」


「呑気にしてるつもりはないんだが――」


 苦笑しつつ、青夜は前かがみになった。膝に片肘を置き、顎を手で支える。


「僕じゃないよ」


 青夜が何か言おうとする前に、大和は牽制を飛ばした。


「僕は目覚めてない。僕はお父さんとは違うんだ。僕は、僕は


「大和。俺たちは別にお前が犯人だなんて言うつもりはない」


「でも犯人探しをしてるんでしょ」


「それはそうだが」


「僕を呼んだってことは僕を疑っているってことでしょ。僕じゃないんだ!」


 悲痛な叫び声を絞り出し、大和は目尻に涙を浮かべた。


「……僕は目覚めてなんかいないんだ」


「お前だけを特別疑ってるわけじゃない。全員が同じ立場だ」


「嘘だ。だって、源二叔父さんも言ってたじゃん。僕たちの中の誰かが目覚めたって。お父さんみたいな人殺しが僕たちの中から出たんだ」


 どう声をかけるべきか。


 大和にとって太一は父親であると同時に人殺しである。檻の中に囚われている父親に対して大和はどのような感情を抱いているのだろう。


 父親が何人もの命を奪った人殺しで、家の掟に従い地下牢獄に繋がれている。


 そんな哀れな父親の姿を見て、幼い大和少年は強烈なコンプレックスを植えつけられたに違いない。「お父さんとは違うんだ」という言葉は、殺人鬼の息子という境遇から出た、彼の精いっぱいの強がりなのだろう。

 しかし心の底から父親を憎んでいるのなら、皆の目を盗んでは地下牢へ赴き、父との密会を重ねるのは不自然である。大和にとって、果たして太一はどのような存在なのか。


「何もやましいことがないなら、俺の質問に答えることはできるはずだぜ? 大和、十二時半から二時十五分までの間、お前はどこで何をしてた?」


「僕じゃないのに」と呟いてから、大和は話し始めた。


「黒音おばさんと一緒に、お母さんの部屋に行った」


「それから?」


「鳥谷さんと黒音おばさんと、お母さんの看病をしてた」


「ずっとそこにいたのか?」


「鳥谷さんは途中でお茶を淹れに行った。鳥谷さんが戻ってきてから、今度は黒音おばさんが出てった」


「お前は? ずっと部屋にいたのか?」


「僕は……」


 大和はすっとうなだれ、もじもじと足を動かす。


「部屋から出たんだな?」


「……うん」


「何時頃のことだ?」


「たぶん、一時過ぎ」


「どこへ行ってた?」


「……」


「伯父さんのところか?」


「うん」


「何をしに行った? 怒らないから、正直に話してくれ」


 声のトーンを少し上げ、青夜は穏やかな口調で言った。いくばくかの間を置いて、大和は口を開く。


「行こうと思っただけで、行ってない。途中で引き返したんだ」


「どうして行こうと思ったんだ? 太一伯父さんが犯人だと思ったのか?」


 大和はブンブンと首を振る。


「違う。訊こうと思っただけ。目覚めて、人を殺したことのあるお父さんなら、同じ目覚めた人間の気持ちが判るかもって思って。それが事件の役に立つかもって思って。でも途中で――」


「太一伯父さんに会うのが怖くなったのか?」


「うん」


「戻ってきたのは何時頃だ?」


「一時二十分くらい。その後はずっとお母さんの部屋にいたよ」


 すなわち、大和にはその二十分間のアリバイがないということだ。

 二十分あれば、時間的な問題はない。しかし、いくら不意打ちといえど、小学生が大人の男を殴り殺せるものだろうか。

 大和の棒のように細い腕を見る。ぷつぷつと粟立っているのが判った。


「英生おじさんを最後に見たのはいつだ?」


「皆で集まった時」


「外に出てから戻ってくるまで、誰かと会ったりしたか?」


「会ってない」


「怪しい動きやおかしなことを言ってた人物に心当たりは?」


「ないよ。お母さんがいつもよりもビクビクしてるけど、ビクビクするのはいつも通りだし。ねえ、僕からも一個訊いていい?」


「なんだ?」


「本当に、お父さんがやったんじゃないよね」


「それは断言できる。太一伯父さんが地下牢にいることは俺と大望くんが確認した」


「本当?」


「鍵は厳重に管理されているし、扉が壊されてる形跡もなかった。あそこから抜け出すのは不可能だ。なあ?」


 同意を求められ、僕は「はい」と小さく言った。すると大和は、こちらに勢いよく首を振った。幼い少年の髪がさらさらと揺れる。


「大望さん、地下牢に入ったんだ」


 大和はひどく悲しい目を向けた。


「いえその」


「お父さんと会ったの?」


「は、はい。しかし扉越しだったのでお姿ははっきりとは判らなかったんですが」


「そう」


 そしてがくんと俯く。想像するに、囚人の身である父親の姿を見られたことに羞恥を感じているのだろう。


「仕方ないんだよ。悪魔の血を説明するには、全てを見せる必要がある」


 そう言う青夜の声色からもかすかな悲しみが感じられた。




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