第38話  目星

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「ちょっと外へ出ないか?」


 午後七時。青夜はそう言って僕を連れ出した。


 本館の食堂では夕食の準備が始まっており、僕もその手伝いをしている最中だったが、何か言いたげな青夜のまなざしを受けてその場を抜け出したのである。


 夜の遊歩道を連れ立って歩く。


 雨は降り続いているが、その勢いは弱まりつつあった。小雨程度にぱらつく雨の中、しっとりとした外気が肌にまとわりつく。

 これまでの大雨のせいか、空気は真夏の夜とは思えないほど冷え切っていた。


「冷えるな」


「ええ」


 ひんやりとした風を受けながら僕たちは進む。


 星明りは当然届かず、屋外灯の類もないため、必然的に懐中電灯を携帯しなければならなかった。僕と青夜の手元から伸びる二筋の光線は闇の彼方で交わっている。この灯りが無くなれば、たちまち僕たちは闇の中に取り残されてしまうだろう。


「晴れていれば、満天の星空の下を優雅に歩けるんだがなぁ」


「長野は星空が綺麗だっていいますよね。ここへ来た夜は、星がよく見えましたよ。とても……綺麗でした」


 煌びやかな星々を眺めながら希愛と寄り添って夜の散歩を楽しむ。そんな情景を思い浮かべて、僕は思わず相好を崩した。しかしそれも刹那のことで、すぐに事件のことが頭の内側を侵食し始めた。


 青夜。


 源二。


 希愛。


 葉月。


 大和。


 源十郎の血を引くこの五人は、いずれも英生の事件で完全なアリバイがない。この中で除外できそうなのは青夜だけだ。彼は、最初の事件で僕が襲われて廊下へ逃げた時、全く同じタイミングで自室から出てきたのだから。


「あれは柵、ですか?」


 何気なく右手の林の奥に懐中電灯を向けると、木々の切れ間から鉄柵のようなものがちらりと見えた。目測だが、五メートルは優にあるだろう。その上部は内側に傾き、返しのようになっていた。


「ああ。敷地全体を鉄の柵で囲っているのさ。源十郎の時代からある。おそらく彼の私刑用の囚人たちの脱走を妨げるために作ったんだろうな。今はもう取っ払ってあるが、昔は高圧電流が流されていたらしいよ」


 さらっと恐ろしいことを言う。そういえば昨日、逃げ出したシロを捕まえた際、大和が絶対に逃げられることはないというようなことを言っていた。あれはこの鉄の柵のことを言っていたのだろうな、と今さら納得した。


 青夜は足元を照らして、


「この遊歩道もね、昔はなかったんだ。どうしてわざわざこんなものを作ったか判るかい?」


「林の中を歩きやすくするため、ではなさそうですね」


「元々敷地内の道はある程度整備されてたんだが、源十郎の死後、ある目的のためにより大規模な造りになったのさ。ヒントは複雑な迷路のようになっている点かな」


 だとしたら答えは一つしかない。


「地下牢獄へ容易に近づけないようにするためですね」


「ご名答。一見森の中の迷宮といった風情を感じさせるこの遊歩道だが、その裏には汚らしい大人の事情が隠れているのさ」


「青夜さんは、大紋家の秘密を知った時、どんなことを思い、どんなことを感じましたか?」


「俺は……そうだな、『納得』だったかな」


「納得?」


「幼い頃、それこそ物心つくかつかないかって時分の記憶に対する納得だよ」


「どんな記憶なのですか?」


「女が突然発狂して、人を殺して回ったんだ。特に鮮明に覚えてるのは、返り血を浴びた女が床に組み伏せられてもがいていた光景だ。昔はまるで意味が判らないただの怖い記憶でしかなかったがこの家の秘密を知った時、彼女も目覚めた一人なのか、と子供心に納得したのを覚えてる」


 青夜が物心つく頃合いというと、二十年以上は前のことだろう。それに目覚めたのが女という情報を合わせて考えると――


「その女性は、もしかして河崎さんの奥様の由伊里さんでは?」


 僕がそう言うと、青夜はぎょっとこちらを向いた。


「驚いたな。どうして知ってるんだ。ああ、誰かから聞いたのか」


 すぐに落ち着いた態度を繕って、青夜は視線を前方に戻した。


「はい。河崎さんから直接伺いました。なんでも、由伊里さんは大紋源十郎の愛人の子供だったとか」


「そう。結局、やつの血を引く者は殺戮の運命には逆らえない。俺も葉月も大和も、いずれは誰かを殺してしまうだろう」


「殺人衝動を抑える方法はないのでしょうか」


「人殺しに効く特効薬か。未来の医学に期待するかな」


 やけくそのように青夜は言った。


「精神安定剤とか、鎮静剤なんかは?」


「全然だめだね。もはやあれは本能と言っていい。しかしまあ、源十郎は性的欲求という代替品を得て、いくらか殺人衝動が収まった時期があるが結局再発してしまったし……あそこで休んでいこうか」


 道の脇に小さな四阿があった。横長のベンチがあるだけの簡素なものだが、雨がしのげるのはありがたい。傘をたたんでベンチに腰を下ろす。


 懐中電灯が作る光線がぱらぱらと落ちる雨粒を捉える。

 四阿の中に照明器具は取り付けられておらず、青夜の表情どころか、顔がどの位置にあるかも判らない。そんな濃密な闇の中で、彼はゆっくりと語り始めた。


「君を連れ出したのは、聞いてほしかったからだ。もっともにいる君に、俺の中でまとまりつつある一つの結論を」


 その声色には彼の決意が感じられた。期待が膨らむ。


「もしかして、誰が犯人か判ったのですか?」


「確信はない。証拠もない。しかし、今まで得た様々な情報をこねくり回していたら、たった一人だけそれらしき人物が浮かび上がった」


「誰なのですか?」


 その時、かちりという音がして鮮烈な炎の光が青夜の顔を浮かび上がらせた。突然のことに驚いたがどうということはない。ライターで煙草に火をつけただけだった。


 青夜はそれらしき人物と言った。あいまいな表現ではあるものの、彼の中で納得のいく推理が組み上がったのだろう。


「誰なのですか?」


 僕は再度訊ねる。


 一瞬だけ照らし出された青夜の横顔は、実に悲哀に満ちていた……


「希愛」


「はい?」


「俺が目星をつけているのは希愛だ」


 舌を噛んで理性を取り戻さなければ、僕はきっと青夜を殴り倒していただろう。それだけの激情が体の内側から湧き上がり、沸騰した。口内の痛みに耐えながら、僕は訊く。


「何を言ってるのか、全く理解ができませんが、一応……訊いておきます。どうして、希愛さんなの……でしょうか?」


「君の憤りは理解しているつもりだ。だから、俺も腹を割って話す。まず気になったのが、犯人が君の部屋の位置を知っていたということだ」


「どういうことでしょうか?」


「第一の事件と言ってもいい、君が襲われた事件のことさ。この事件で犯人は君の部屋の真上の部屋から外壁を伝って侵入した。ということは、だ。言い換えると、犯人は君が別館の人物ということになる。君がこの家にやってきたのは一昨日の晩だったね。葉月と大和はその時本館にいて、君がどの部屋に入ったかなんて知る機会はなかった。これを知っている大紋の直系の人間はおそらく俺と希愛だけだろう。しかし俺には第一の事件が起きた時隣の部屋にいて――」


「ちょ、ちょっと待ってください。僕が使わせていただいた部屋を知っているのは希愛さんだけではありませんよ。僕の記憶がたしかなら、一昨日あの部屋に案内してくださったのは鳥谷さんですし――」


「大望くん、俺は大紋の直系が犯人である、という前提で話をしているんだ。反論するのなら、その範囲の人物の名を挙げてもらいたい。君の部屋を知っていた大紋源十郎の血を引く人物が、俺と希愛以外にいるかい?」


 葉月や大和を部屋に招待した記憶はないし英生は被害者となっている。源二と顔を合わせたのは今日が初めてだ。


「いません……が」


 がしかし、これはあまりにも乱暴な論理ではないか? 僕が直接教えずとも、どの部屋に割り当てられたかなんて調べようとすればすぐに判ることだろう。しかし、青夜はこちらの反論を待たずに話を進める。


「そしてダイイングメッセージだ。あの『12』と読める血文字。何か引っかかるなと思ってずっと12に関連する事柄を考え続けた。そしたら見事にぴたりとハマる答えを思い出したんだよ。大望くん、君ならとっくに判っていたはずだぜ。三月十二日。この日付が意味するものは?」


 全身の力が一気に抜けていくのが判る。穴の開いた水槽のように、気力が勢いよく体の外へ逃げていく。


「希愛さんの……誕生日です」


 そう、判っていた。判っていながら、そんなわけはない、と自分を騙してその事実から目を背けていた。


「源十郎の血を受け継ぎ、大望くんの部屋の位置を知っておりなおかつ、12という数字に関連する人物。それは俺の知る限り希愛しかいない」


「そんなわけありません。希愛さんがどうして殺人なんかをしでかさなくっちゃあいけないんですか」


「目覚めた者の事件が起こす殺人は、動機なき殺人だ。なぜ殺すのか、という疑問に意味はない」


「しかし、前にも言ったように僕が襲われた事件は計画性の強いものです。衝動的な殺人とは毛色が違います」


「だからそれらしき人物、と言ったんだ。それに、その問題にも答えようと思えばそれらしい答えを用意できる」


「え?」


「つまりね。犯人は第一の事件明確な殺意と動機に従い動いていたのではないか」


「お、仰っていることの意味が判りませんが」


「要するに、第一の事件が起きた時、犯人はまだ目覚めていなかったのではないか」


「はぁ?」


 青夜は何が言いたいのか。これまでさんざんこの事件は目覚めた者の起こした事件だと言っていたのに。自分の仮説に説得力を持たせるためにその前提となる主張を覆すつもりなのか?


「まあ聞けよ。基本的に、悪魔の血というものは偶発的に、そして何の予兆もなく突然目覚めるものだ。だが一方で、精神的ショックが引き金となって目覚めた例も少なくない。理性が吹っ飛ぶような何かが眠っている悪魔の血を呼び起こすんだ。例えばそう、人を殺しかけた、とかね」


 じわりじわりと、汗が吹き出る。


「これを頭に入れて今回のケースについて考えよう。大望くんの言う通り、事件の性格から見ておそらく君を殺そうとした行為そのものは、殺人衝動によるものではない。念密な準備の痕跡が窺えるからね。だから犯人には君を殺さなくてはいけない重大な理由があったに違いない。それがどんな理由かは判らないが」


「重大な……理由」


 たしかに、計画性の強さはそのまま殺意の大きさを計る指標となる。


「犯行は結局未遂に終わったが、君の命を奪おうとしたことがきっかけとなり、犯人の中の悪魔の血が目覚めてしまったと考えられる。以降の殺人は、殺人衝動を抑えられなくなった犯人が手当たり次第に起こしたものだ。これで第一の事件と第二、第三の事件の性質が異なることには説明がつく」


「だったら、希愛さんはどうして僕を殺そうとしたんですか? 僕たちは将来を誓い合った恋人同士なんです。百歩譲って、自分を抑えられなくなって衝動的に僕を殺そうとすることはあり得るかもしれません。そこには彼女の理性は働いていないのですから。しかし、動機という観点に立てば、希愛さんだけは絶対に犯人じゃないと言い切れます。彼女には僕を殺す理由がありません」


「しかし、この家の他の人間たちにも君を殺す理由はないじゃないか。なぜなら、君がこの家にやってきたのは一昨日が始めてだったのだから。君と唯一深い中で結ばれていたのは希愛だけだ」


「そんな……」


 僕は言葉を失っていた。希愛だけは違うと心の底から信じていたし、今もその確信はゆるがない。ゆるがないはずなのに、どうして僕は動揺しているのだ?


 僕が希愛を愛するように、希愛も僕を愛しているはず。


 小さな喧嘩はいくつか経験してきたが、どれもこれも後に引きずるようなものではなかった。ましてや、殺意に発展するほどの争いなど、僕たちの間にはなかったのに。


「大望くん、これはあくまで俺個人の意見だ。証拠はないし、粗を探そうと思えばいくらでも見つかる。しかし現状最も怪しいのは希愛だ」


「慰めなんていりません」


「慰めているつもりはこれっぽっちもない。ただ注意喚起をしたいだけさ。犯人が最初に狙ったのは君だ。この後も君が狙われる可能性はある。そして、希愛と最も近しいのも君だ」


「希愛さんと僕が二人きりでいる機会は何度もありました。殺そうと思えばその時に殺せたはずです。彼女が本当に僕を殺そうと思っていたのなら、殺意を抱いていたのなら」


 それが僕にできた唯一の反論だった。


「……希愛の動向には十分注意を払ってくれ」


 そう言って、青夜は二本目の煙草に火をつけた。



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