第三章  覚醒

第15話  目覚めた悪魔

 1



「それで大望くん、その後はどうなったんだい?」


 青夜は落ち着いた口調で訊ねた。僕を刺激させないように、という配慮からか、表情も柔らかい。僕は慎重に言葉を選び、それからのことを一同に伝えた。


「正確なことは判りません。ただ、そこから逃げなくては、という思いで、無我夢中でした。ベッドから飛び降りて、ドアに向かって走って、そうして廊下に出たら……青夜さんがいて」


「そう、そこで君の声に気づいて廊下に飛び出した俺と出くわしたんだったね」


「はい」


 場所はラウンジ。壁の時計は午前二時ちょうどを示している。

 中央に置かれたコの字型ソファーには、この夜別館にいた全ての人間が集められていた。時間が時間なため、一様に眠たそうな顔をしている。


「それで、そいつはどうなったのかしら」


 葉月が言った。


 大雨の中本館に帰るのが面倒だというので、彼女は別館の来客用の部屋で休んだそうだ。これはかなり酒を飲んでいた英生も同じであった。

 ラウンジでの酒宴に参加した者の中で本館へ戻ったのは、素面の黒音だけだったという。


「俺と大望くんで部屋を覗いてみたが、誰もいなかったよ」


 青夜は妹を横目で見ながら言った。


 包丁を持った何者かから逃れようと廊下に飛び出した僕は、悲鳴に気づいて部屋から出てきた青夜と会った。経緯を説明し、二人で部屋を確認するも、そこには誰もいなかった。


「失礼ですが、夢を見られたのでは?」


 しゃがれた声でそう言ったのは大紋家のコックである河崎真知男だった。彼と顔を合わせるのはこの場が初めてである。

 痩せぎすの老人で、白髪を短く刈り上げている。額の左上にある十円玉サイズのシミが目を引いた。


「夢、ですか」


 言われてみればたしかに、あれが夢ではなかった、と言い切れる根拠はない。

 一年ほど前から僕を悩ませている悪夢に酷似した状況であるから、もしかすると夢だったのかもしれない。


 が……


「しかしですね、河崎さん。俺らが確認した時、たしかに大望くんの部屋には誰もいませんでしたよ。いませんでしたが――」


 青夜は座を見回した。各々、神妙な顔つきになって青夜の視線を受け止めている。


んですよ」


「窓、でございますか?」


 河崎はまぶしそうに目を細める。


「はい、窓です」


「それってつまり……」


 青夜の隣に座った茜が、口元を両手で押さえた。薄手の黄色いパジャマに身を包んだ彼女は、怯えたように顔を強張らせて青夜に寄り添っている。


「そう、謎の侵入者は窓から逃げた可能性がある、ということさ。廊下には俺と大望くんがいたから、窓以外に脱出する経路はない。ところで大望くん、ドアの鍵は閉めていなかったんだよね?」


「はい」


 希愛が出て行った後、僕はそのまま眠ってしまった。

 部屋の外側から鍵をかけることはできないため、僕の部屋は施錠されていない状態だった。つまり、誰にでも侵入は容易だったのである。


「では大望くん、寝る前に窓を開けたかい?」


「いいえ。希愛さんが一度カーテンをまくって外の様子を見たくらいです」


「そうです」


 希愛が大きく頷いた。


「だろうね。こんな雨の夜じゃあ、窓を開けっぱなしにしたまま寝るわけがない。ではなぜ部屋の窓が開いていたのか。大望くんが寝ぼけて開けたというのも考えられなくはないが、侵入者がそこから逃げた、と考える方がもっともらしい」


 誰も何も言わなかった。状況が僕の証言を裏付けている。この家の中にいる誰かが僕を殺そうとした、という信じがたい事実を。


 いったいなぜ?


 どうして僕が命を狙われなければならないのか。一番の謎はそれである。


 この家を訪れてから、誰かと殺意に発展するほどのトラブルなど起こした覚えはないし、起こしようがない。

 希愛、黒音、英生以外の人間とは初対面なのだから。


「悪戯、という線はないのでしょうか」


 沈黙を破ったのは大柄な中年女性だった。

 場の緊張感が耐えられないのか、落ち着きなく視線を泳がし、組み合わせた両手を遊ばせている。

 彼女も使用人の一人のようだ。昨日の夜、車でT**村まで迎えに来てくれたのは彼女だった。たしか、名前は鳥谷とりたにだったか。


「悪戯ねぇ。まあたしかに確認しておく必要はあるな。ではここに集まった全員に訊こう。この中に、こんな夜更けに、包丁を片手に持って、大望くんの部屋を訪れた者はいるかい?」


 問いかけに答える者などいなかった。


 ラウンジには八人の人間が集まっている。


 希愛、青夜、葉月、英生、茜、河崎、鳥谷、そして僕。


 無言のまま、八つの視線が場を行き交う。


 この時、僕はあることに気がついた。表情が暗く、重たいのは全員同じだが、特に大紋家の人間――希愛、青夜、英生、葉月の四人は大きな脅威に直面したかのような陰鬱な顔をしていた。


 怯え、困惑、焦りといった感情が彼らの表情から読み取れるが、それらが何を意味するのかは判らない。


「英生おじさん、どう思われますか?」


 青夜との意味深な視線のやり取りの末、英生は重苦しい口調で切り出した。この事態に、すっかり酔いは冷めてしまったようで、平素の厳かな佇まいを取り戻している。


「どうもこうもなかろう。最悪の事態が起こってしまったとしか今は言えん。もし大望くんの話が真実だとしたらだがな……」


「お父さん、大望くんが嘘を言ってると言いたいんですか?」


 希愛が抗議する。


「そんなことは一言も言ってない。ただ――いや、いい」


 英生はそこで言葉を切り、ひどく悲しげな視線を虚空に投げた。父娘の間に険悪な空気が流れ、それが場に溶けていく。十秒ほど沈黙が続いた。


「顔は見なかったのかしら?」


 静かに葉月が訊く。


「顔は判りませんでした。何かこう、顔全体を布が覆っていたような感じで、それとフードのような物も被っていたので」


「じゃあ性別も判らないのね。背丈はどうかしら」


「それも……よく判りません。暗かった上に、僕はベッドの上に仰向けになっていて、見上げるような格好だったので」


「つまり、大望くんの目撃証言から犯人を割り出すことは不可能だ」


 総括するように青夜が言った。


 彼はここで犯人という言葉を用いた。その単語の持つ、物々しい響きが、場の空気をいっそう重くする。

 そうだ、これは殺人未遂事件なのだ。包丁を持って侵入した人間が何もしないまま帰るなんてありえないだろう。


 ちっちっち、と秒針が無感情な音を立て、時間だけが着実に過ぎていく。



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