第14話  侵入者

 1



 目に映る全てが、濃密な闇によって黒く塗り潰されている。


 これは夢だろうか。


 それとも……


 曖昧な意識の中で、僕は自分の自我をはっきりと認識している。しかし、体には全く力が入らず、水の上に浮かんでいるような浮遊感と目の前の闇だけが、知覚できる全てだった。


 夢かうつつか。


 もしかすると、その境界線上を漂っているのかもしれない。


 夢の中に落ちることもできず、かといって己の肉体を覚醒させることもできず、僕は自身を取り巻く闇の中で一人彷徨っていた。


(僕は……今)


 どれくらいその不安定な感覚が続いただろう。何もない黒一色の世界で、僕はようやく闇以外の何かを知覚することができた。


 ざあざあ、と降りしきる雨の音が聞こえる。雨の音が耳に届くということは、僕は今起きているのだろう。きっと、アルコールのせいで眠りが浅くなってしまったに違いない。


 こういうことはよくある。


 強くないくせに、調子に乗って酒を飲み過ぎた夜、今のように朦朧とした状態で目が覚めることが幾度となくあった。


 鈍い頭痛がする。


 頭の中に溶けた鉛を流し込まれたような……


 こうなると、再び眠りにつくほか解決策はない。

 僕はぎゅっと目を閉じるが、息苦しさと頭の奥の鈍痛が邪魔をして、なかなか寝付けなかった。少しでも気分を和らげようと、まぶたの裏に愛する希愛の顔を思い浮かべる……うん?


(今のは……)


 何かが聞こえた。


 雨の音とは全く異なる奇妙な異音が、僕の耳にするりと入り込んだのだ。

 これは何だ?


 幻聴ではないはずだ。耳に意識を集中させる。すると、間断なく続く雨に、一定の間隔で異音が混じっているのが判った。


 表の嵐とはまた違った荒々しさだ。


 まるで獲物を目の前にした獣が発する荒い呼吸音のようである。


 ……呼吸。そう呼吸だ。


 空気を吸い込み、そして吐き出す。その一連の動作と音が聞こえる間隔は全く同じように思えた。それはつまり、この部屋の中に僕以外の――


(誰かが、いる?)


 希愛だろうか? それにしては、様子がおかしい。しかし、彼女以外の誰かが深夜に僕の部屋に忍び込むなど、考えられない。


 では誰だ?


 目を開けるが、世界は依然として闇に包まれている。しかし、音源はかなり近いように思う。それこそ、僕のすぐそばに呼吸音の正体がいるような……


「誰ですか」と声を出そうとするが、喉が焼けたように熱くて、上手く声を作れなかった。


 体を思うように動かせず、それが僕の恐怖を増大させた。


 押し殺したような息遣いと、激しく降り注ぐ雨の音。


 それらは機関銃のように僕の鼓膜を刺激し続ける。


 その時、闇に満たされた部屋に鮮烈な光が侵入した。


 雷が近くに落ち、その光が窓から差し込んだのだが、今の僕にはそこまで頭を働かせる余裕はなかった。ただ、その時目にしたものを理解するだけで精一杯だったのだ。


「あ、あ……」


 白い閃光の中に、くっきりと影が浮かんでいた。


 一瞬の出来事ではあったが、その黒い影はしっかりと僕の網膜に焼き付いた。


 影は、ベッドの前に仁王立ちの恰好で立っており、僕を見下ろしていた。その手には包丁が握られていて、僕はとっさにあの悪夢を思い出した。


 ここ一年の間、何度も僕の夢の中に現れたあの巨大な女。包丁を固く握り、僕を見下ろすあの女。


 あいつだ、あいつが……!


 恐怖が臨界点を超える。


 夢の中で僕の右腕を斬りつけるだけでは飽き足らず、あいつは遂に現実世界へ抜け出してきたのだ。


 再び雷光が轟き、やつの影が鮮明に浮かび上がった。


 僕は喉を振り絞り、二度と声が出せなくなっても構わない覚悟で、大声を上げた。


「うわああああああああああああああああ」



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