第13話  束の間の団欒

 1



「ほら……ぐっと、そうだ。よしよし、男らしいなぁ。はっはっは」


 ゆでだこのように顔を真っ赤にしながら、大紋英生は酒臭い息を吐いた。

 僕はたった今空にしたジョッキをテーブルの上に置き、すかさず水の入ったグラスに手を伸ばす。


「お父さん、一気飲みの強要なんてやめてください」


 希愛がきつい口調で英生に抗議する。


「大丈夫ですか? 大望くん」


「これくらいなら平気だよ」


 僕は言う。しかしこれは強がりである。


「もう真っ赤じゃないですか。大望くん、今日はこれで打ち止めにしてくださいね」


「あ、うん」


 酒は好きだが、あまり強くはない僕だった。喉が絶えず渇き、頭がくらくらする。


「英生おじさん、僕がお付き合いしましょう」


 ブランデーの入ったグラスを片手に、青夜がこちらのテーブルにやってきた。彼もかなりの量の酒を飲んでいたはずなのに、素面のように涼しい顔をしている。


 時刻は午後九時半。


 二階のラウンジには七人の人間が集まっていた。


 僕、希愛、青夜、葉月、黒音、そして先ほど出先から帰ってきた英生がコの字型のソファーを囲んでいる。右奥にあるバーカウンターの中には茜がおり、今は水割りを作っている。


 英生が屋敷に帰り着いたのは午後九時を少し過ぎた頃だった。


 ここまで帰宅が遅くなったのは、今なお続く豪雨が影響したらしい。


 先ほど目にしたローカルニュースによると、今回の大雨によって土砂崩れや川の増水などの被害が長野県内各地で見られたという。大紋の屋敷も周りは山に囲まれているため、十分な警戒が必要だろう。


「酒は飲めば飲むほど強くなるんだ。俺も昔はよく吐いたもんだ」


「大望くん、お父さんの言うことは気にしなくていいですからね」


「え、ええ」


 英生は細身でスタイルがよく、肌の血色もよいため実年齢よりも格段に若く見える。

 物腰も穏やかで、理路整然とした思考力の持ち主である。娘の恋人である僕に対しても優しく、常に敬意を払って接してくれるため、僕も彼には好感を抱いている。


 が、これは素面の場合の話である。


 一滴でもアルコールが体内に入ると、途端に豪快な酒飲み親父に豹変してしまう。彼のこの酒癖の悪さだけはなんとかならないものか。


 希愛に支えられ、カウンターに辿り着くと、僕は水のおかわりを所望した。


「はーい、どうぞ」


 茜は手慣れた手つきでグラスに水を入れ、ストローを指して手渡してくれた。


「ありがとうございます」


 水を一気に流し込むと、焼けつくような喉の渇きもいくらか楽になった。


「希愛お嬢様は何か飲まれますか?」


 茜は隅にある冷蔵庫を開ける。中には酒類がコンビニの酒コーナーのようにびっしりと詰まっていた。


「そうですね、あんまり強くないもの……ほろよいのアイスティーサワーで」


 希愛も僕と同じで酒は強くない。

 聞くところによると、彼女の下戸体質は母親の遺伝だという。黒音もまた、酒を受けつけないそうだ。

 見ると、黒音は夫の横でジュースを飲みながら、呆れたような顔をしている。


 その向かい側では葉月が仰向けになって寝息を立てている。ほんのりと頬に朱が差しているが、まさか酒を飲んでいないだろうな。


「ちょっとお手洗いに」


 希愛が席を立った。茜に水のおかわりをもらい、ぐっと飲み干す。


「……なんでしょうか」


 視線を上げると、茜が僕のことをじっと見ているのに気がついた。にこやかな笑顔のまま、彼女は言う。


「なんだか似てるなって」


「へ?」


「希愛お嬢様と大望様のことですよ。仲のいい夫婦はだんだん雰囲気が似てくるでしょう?」


「そうでしょうか」


 そういえば、葉月にも僕たちは似ていると言われた。

 褒められているのかよく判らないが、悪い気はしない。

 ただ、そんなことよりも金持ちの家には本当にメイドさんがいるんだなぁ、などと考えていた僕だった。


「茜さんはここで働き始めて長いのですか」


「もう四年になりますねぇ。最初は知り合いのつてで、高校生の時にバイトで始めたんですけど」


 聞くと、茜は長期連休のたびにここでメイドのバイトをしていたそうだ。それがどうして本業になってしまったのか、彼女は熱く語る。


「高校卒業後の進路は大学に進学希望だったんですけど、高三の夏に父が急病で倒れてしまいまして、治療費やら生活費やらお金がたくさん必要になって、進学どころじゃなくなってしまったんです」


 茜の母は彼女が幼い頃に病気で他界し、兄も不幸な事故で失っているという。親族とは縁を切っているらしく、唯一残された肉親の父のため、彼女は地元で就職する道を選んだそうだ。


「それを知った青夜さんが、だったらうちにくるかって言ってくださって、本格的に家政婦として雇っていただいたんです」


 ちなみに茜の父は闘病生活の末、二年前に亡くなったという。胃がんだったそうだ。天涯孤独の身の上である彼女に、僕は共感を抱いた。


「おーい、茜ちゃんもこっちにおいでよ」


 青夜がよく通る声で言った。それを受けて、茜は水割りを盆に乗せてソファーの方へ移る。それと入れ違いに希愛がトイレから戻ってきた。


「あ、希愛さん、おかえりなさ――」


 瞬時に悪寒が全身を走り、酔いが醒める。ハイライトの消えたよどんだ瞳が、僕を見下ろしていた。


「浮気しちゃだめですよ?」


「え?」


「ずいぶん仲良くお話ししていましたね」


 これで、希愛はなかなか嫉妬深い。

 僕が同じゼミの女の先輩とラインしただけで浮気をしているのではないかと問い詰められたこともある。

 その時の彼女の怒りようは、普段のほんわかした態度からは想像もつかないほどで、その落差に当初はひどく驚いたものだ。


 だが、それが僕を深く愛しているがゆえの嫉妬だということに気づくと、途端に彼女が愛らしく感じた。

 その愛の深さを確認するために、わざとほかの女の子と仲良くすることもあるのだが、その真相は希愛には内緒だ。


「お話ししていただけです。でもあんまり話は弾みませんでした。楽しいのは希愛さんといる時だけだなって改めて気づきました」


「そうですか」


 希愛の表情が弛緩し、瞳に光が戻った。安堵の息をつくと、去ったはずの酔いまで戻ってきて、少し気分が悪くなった。すかさず水を流し込む。


「あの二人、仲がよさそうですね」


 僕が言うと。希愛は背後を振り返って、


「今はもう亡くなってしまったんですが、茜さんにはお兄さんがいたんです。で、その人と青夜兄さんが高校時代のお友達だったんですよ。だから青夜さんは高校生の頃から茜さんと仲良くしてたらしいんです」


 なるほど、それが知り合いのつてか。


「二人は付き合ってるんでしょうか」


「さあ」


 ここから希愛は声を落として、


「でもたぶんですけど、茜さんって青夜兄さんに気があるんじゃないかって思うんです。何というか、青夜兄さんを見る目に、乙女心みたいなものが感じられるんです」


「へぇ」


「でも、青夜兄さんは高校生の頃から妹みたいに接してきたみたいで……最近は葉月ちゃんが主導になって二人をくっつけようとしてるみたいなんです。それで――」


 希愛は顔を寄せ、青夜と茜の恋の模様を饒舌に語った。それにしても、女子は他人の恋路についてどうしてそこまで熱中できるのだろう。


 僕はカウンターに上半身を預け、希愛の話に耳を傾けながらちびちびと水を啜った。



 2



 ゆったりと流れる時間に身を任せ、体の火照りが去るのを待つ。


 顔が熱い。


 体も熱い。


 胸に手を当てると、自分でも驚くほどはっきりと鼓動を感じ取れた。

 不快ではないけれど、決して心地よいともいえない感覚が僕の体にまとわりついている。先ほどの酔いが引いた感覚はやはり錯覚だったか。


「もう休みますか?」


 話が一段落つくと、希愛は僕の顔を覗き込み、心配そうに言った。見ると、彼女の目は潤み、頬は赤く染まっている。


「そうですね、あっちはまだ平気そうですけど、僕はもう限界に近いです」


 ソファーの方を見やると、青夜、茜、英生の三人がまるで水でも飲むようにがぶがぶと酒を飲んでいた。下戸の目から見ると、ああいう光景は異世界の出来事のようである。


「おっとっと」


 立ち上がった瞬間、膝の力が抜けてしまい、危うく倒れるところだった。

 カウンターの上に両手をつき、思った以上に自分が酔っていることに気づく。視界が大きく揺れ、視点が上手く定まらない。


「大丈夫ですか」


 希愛の肩を借り、なんとか立つことができた。


「大望さん、お休みになりますのね」


 こちらに気づいた黒音が席を立った。希愛とは反対側の肩を支えてくれる。


「あ、お義母さん、いいですよ」


「いいんですよ、希愛だけじゃ支えきれないでしょうから。うちの人のせいでこんなになってしまって、ごめんなさいねぇ」


「本当ですよ。お母さん、後でお父さんをみっちり叱っておいてください」


「はいはい」


「絶対ですよ!」


「はいはいったら」


 母娘に支えられながら、長い廊下を歩き詰め、僕はなんとか部屋に帰り着くことができた。


「あ、お義母さん、本当に、ここまでで大丈夫です。ありがとうございました。あ、そうだ。今日はすいませんでした」


 戸口に立ち、僕は大きく頭を下げた。


「何かしら?」


「嫌なものを見せてしまって……気分を悪くされるのも当然です」


「ああ、傷のことかしら」


 その時、黒音の目にうっすらと憂いの色が浮かんだ。


「たしかにびっくりはしましたけど、途中で辞したのはあなたの腕の傷痕を見たせいじゃないのよ」


「いえ、気を遣っていただかなくても……」


「本当よ。冷房にあたり過ぎて、ちょうど私の座っていたところが冷房の真下だったから、それでちょっと気分が悪くなっただけなの。あなたのせいじゃないわ」


「はぁ」


 黒音はにっこりと微笑んだ。暖かな、母性に溢れる笑顔だったが、やはり憂いというか、何か後ろ暗いものがその笑顔の裏に隠れているような気がした。


「それじゃあ、お休みなさい」


「はい、お休みなさい」


 黒音を見送ると、僕は希愛と共に部屋に入った。

 希愛と二人きりになると、先ほどまで頭のどこかで意識していた緊張感がすっぱり消えた。やはり彼女といると落ち着く。


 寝間着に着替えるのももどかしく、そのままベッドに横になった。シャワーは明日の朝に浴びればいい。


「雨、降ってますか」


 訊かずとも判ることを僕は口にする。希愛は窓辺に寄ってカーテンをまくる。


「土砂降りですよ……あ、雷が落ちました」


「近いですか?」


「ううん、山の向こう側です」


 カーテンをしっかり閉め、希愛は言った。


「それじゃあ、私も行きますね」


 ベッドサイドに立ち、希愛は僕の頬にキスをした。


「お休みなさい、大望さん」


「お休みなさい、希愛さん」


 希愛が戸口の横のスイッチを押し、部屋は闇に包まれた。彼女が退室すると、廊下から差し込む光も途切れ、室内は完全な闇に支配された。



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