第25話 哀れな仔羊
1
遊歩道の迷宮を抜け、無事本館へと辿り着いた。
嵐が静まる気配は微塵もなく、雷鳴が轟く悪天候の下で見る本館は、まるでホラー映画の舞台のようだった。
傘を差していたのに、服はすっかりびしょ濡れだった。
靴の中まで水が侵入し、実に不快である。中に入り、雨水をぽたぽたと落としながらスリッパに履き替えた。
「すっかり濡れちまったね」
「ええ」
「俺の部屋は二階だから」
僕たちが階段に足を向けたその時、どこからか悲鳴が飛んできた。つんざくような女の声だ。
「いやよ、離してっ!」
僕の頭は瞬時にして最悪の想像を作り上げる。今まさに、第二の事件が起きてしまったのかもしれない。青夜の方を見やると、彼は顔を強張らせていた。
「美空伯母さんの声だ」
「誰かに襲われているのでは? 助けなくては」
僕がそう言ったのとほぼ同時だった。
左手の扉が勢いよく開き、長い髪を振り乱しながら、女がどたどたと駆け込んできた。
初めて見る顔である。丸っこい狸顔の美人で、花柄のサマーニットに深緑色のスカートという格好だ。
彼女は僕たちを見ると、「あっ」と言ってその場で立ち止まった。凍り付いたように固まってしまい、僕と青夜を交互に見つめる。そして、
「いやああああ、助けて」
突然その場にへたり込み、子供のような泣き声を上げ始めた。
見たところ、彼女は二十代後半から三十代前半くらいだと思われた。
大の大人がわんわんと泣き叫ぶさまを見て、いったいどうしたものかと青夜に視線を送ると、彼は困ったふうに肩をすくめた。
「大丈夫ですか、美空伯母さん」
彼女が大紋美空か。大和の母で、今しがた地下牢獄で会った太一の妻。
――悪魔に運命を捻じ曲げられた、哀れな子羊よ。
葉月が言うには、美空はいつも怯えているということだった。
何に対して怯えているのかは判らないが、たしかに、目の前の彼女は怯えている。体は細かく震え、呼吸は安定しない。目は充血し、涙が溜まっていた。
「来ないで、やめて」
青夜が一歩近づくと、美空は体をねじり、這うようにして青夜から遠ざかろうとした。腰が砕けてしまっているようだ。
「大丈夫ですよ。ここにはあなたを傷つけようとする人はいません」
「嘘よ」
「本当です」
「知ってるのよ。あんたたちが紙谷さんを殺したって。さっき聞いたもの。それで、それで、次は私なんだわ」
「やれやれ」
遅れて、美空がやってきた扉から黒音と葉月、そして大和が入ってきた。彼女を追ってきたのだろう。それを見て、美空はさらに叫ぶ。
「やめて、殺さないでぇ」
「お母さん、大丈夫だから」
大和もまたぐしゃぐしゃに泣き腫らしている。
「いやぁ」
もそもそと床を這い、壁際まで来たところで美空は静かになった。どうやら失神してしまったようである。
状況が理解できない僕は、傍観者に徹するばかりだった。大和が母親を抱き上げ、葉月が腰を、青夜が足を持った。
「よし、部屋に運ぼうか。それにしても、いったい何の騒ぎだい」
青夜が訊くと、黒音が横目で美空を見ながら、
「茜さんの事件について話したら、気が動転してしまったみたいね。なるべく刺激を与えないように伝えたのだけれど、やっぱり彼女だけに教えないわけにはいかないじゃない?」
事件の話はすでに希愛と葉月を通して本館にいた人間に伝わっているようだ。
「目覚めてしまった悪魔に怯えてるのよ」
葉月が無表情のまま呟き、それに対して誰も何も言わなかった。
美空を部屋に運び、ベッドに寝かせた。大和がそばにいて様子を見るというので、美空を彼に任せて僕たちは部屋を出た。廊下を一列になって歩く。
「美空さんは何に対してあんなに怯えているのでしょうか」
僕が訊く。
「だから悪魔よ」
葉月がすかさず言った。
「ところで、父は今回の件について何か言っていましたか?」
青夜がすぐ後ろを歩いていた黒音を振り返る。
「大きなショックを受けていたようだけど、顔には出さなかったわ。特に指示はなかったけれど……英生さんが警察へ連絡を取りに行ったと聞くと、少し驚いていただけで、何も言わずに部屋にこもってしまったわ」
「父は保守的な人間ですからね」
「つまり、源二さんの方針は隠蔽なのでしょう?」
「はっきり言いますね、黒音おばさん」
「やっぱり相談してから英生さんを行かせた方がよかったかしら」
「英生おじさんが戻ってきたら荒れそうだなぁ」
「大丈夫よ。その頃には警察も一緒でしょうし」
「本館の電話も繋がりませんか?」
「ダメね。昨日の昼間――雨が降る前は繋がっていたのだけれど」
「ふむ、やっぱりどこかで土砂崩れがあったんだろうな」
「ねえ、可能性の一つとして考えられることなのだけれど」
葉月が少し声の調子を落として割り込んだ。
「私たちの内の誰かが目覚めたのではなく、太一伯父様が地下牢から抜け出して茜さんを殺したんじゃないかしら」
「それはない」
青夜が即座に言った。
「どうして?」
「たった今、俺と大望くんで地下牢を見てきた。太一伯父さんが脱走したような痕跡はなかった」
「あら、大望さんに地下を見せたの?」
「この非常事態だ。仕方ないだろ。それと、彼には源十郎のことも話した」
「私たちの呪われた血のことも?」
「……それはこれから説明するつもりだ。とにかく、太一伯父さんが逃げ出していない以上、俺たちの中の誰かが目覚めてしまったとしか考えられない」
「可哀そうなことね。茜さん、いい子だったのに」
黒音がぽつりと言う。
「黒音おばさん、茜ちゃんの事件の前の騒動のことは聞いていますか?」
「ええ、大望くんの部屋に誰かが押し入ったという……茜さんの事件と同じ人間なのかしら」
「そうでしょうね。そちらの犯人も包丁を持っていたそうですから、茜ちゃんの事件と凶器が一致します」
「本当に可哀そう」
沈んだ面持ちでそう繰り返し、黒音は細い肩を震わせた。
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